その日は一日中雨が降っていた。ざあざあ、というには少し弱く、しとしと、というには少し強い雨だった。
在宅勤務のヴィンチェンツォは、帰りに同棲している絢瀬に牛乳を買ってきて貰おうと思っていたが、申し訳ないから止めておこうとスマートフォンをテーブルの上に戻した。なにも今すぐなくなるものでもないので、また明日にでも買いに行けば良いのである。今日は底冷えするような寒さでもないのだ。シチューを作って腹の底から温まるほどでもない。だから、別に牛乳は要らないのだ。
だったら、何を作ろうか。そう思いながら、ヴィンチェンツォは確認して貰う広告用の仮原稿データを添付したメールを送信する。ついでにウェブのタイムカードを打刻する。今日の勤務時間はこれで終了だ。返ってくるだろうメールの返信も、原稿データの修正も全部明日の自分に丸投げだ。うーん、と丸太のように筋肉で膨らんだ腕を伸ばして、ブルーライトカットのためにかけていた眼鏡を外す。二メートルの筋肉だるまの巨体を受け止め続けていたイスから身体を起こし、のそのそとリビングに向かう。ずっと座り続けていたために固まった身体をのんびりほぐしながら、ダイニングの冷蔵庫をあける。
真っ先に目についたのは鶏肉だった。昨日すこし離れたところにあるスーパーマーケット(そこは最安値をうたっているだけあり、とにかく食材が安いのだ)で大量に買い込んだものだった。鶏肉を見て思いついたのは唐揚げだった。昨日、同じスーパーで買い込んだコロッケだったのに、二日続けて揚げ物かぁ、と思ったものの、外に他の食材を買いに行くのは億劫だった。雨の日とはえてしてそのようなものである。
「まあ、アヤセには明日魚にするって謝っておこうかな……」
付け合わせはレタスとタマネギたっぷりのサラダにするから赦してくれ、と思いながら、ヴィンチェンツォはエプロンを手に取る。胸元にひよこがかわいらしく描かれているそれは、いつかの誕生日にと絢瀬がプレゼントしてくれたものである。濃紺の地に黄色いワンポイントのひよこだけのシンプルなそれは、彼女も満足のデザインだ。エプロンを慣れた手つきで着用し、ヴィンチェンツォは冷蔵庫から肉を取り出す。味付けは唐揚げの素だ。いつもはしょうが醤油味のベーシックなものを使っているが、今日は名前に釣られて買った(そして、そのまま忘れていた)ハーブと塩のものにした。賞味期限が迫っている、というのもあったけれど。
夕飯のメニューには唐揚げとサラダだけではなく、あとスープが欲しいな、と思った彼は戸棚から固形コンソメを取り出す。サラダにつかうタマネギをここでも使って、今日はヘルシーを意識しましたよ、と言うアピールをする算段だ。メニューが確定してにこにこ気分でヴィンチェンツォはスープ用の深い鍋と揚げ物用の鍋をシンクの上の棚から取り出す。こういうときに規格外の身長は便利である。
油を揚げ物用の鍋になみなみ注いでいると、玄関の扉が開かれ、ただいま、とやや疲れた声が聞こえてくる。
「おかえり」
「ん、ただいま……また揚げ物?」
「えへ。ちゃんと野菜もたっぷりあるから!」
「まあ、それならいいけど」
リビングに顔を覗かせにきた絢瀬は、ダイニングテーブルに転がっている鶏肉と、シンクで立っている彼が持っている油入れを見て、夕飯の内容を察したらしい。秀麗な眉をひそめた彼女だったが、ヴィンチェンツォの野菜たっぷり、という言葉でしぶしぶ引き下がる。そのまま自室に戻っていった彼女を見送り、ヴィンチェンツォはビニール袋に鶏肉を放り込む。封を切った唐揚げの素を振りかけて、スープの鍋に水を張る。唐揚げの素をまんべんなくまぶすのは絢瀬に任せるつもりである。家事がまるでできない彼女だが、まるきりヴィンチェンツォに任せるのは嫌であるらしく、こうしてちょっとした仕事を任せると喜ぶのだ。
もこもことした部屋着――これはヴィンチェンツォが数年前のクリスマスにプレゼントしたものだ。絢瀬本人からはかわいらしすぎると不満が漏れたが、ヴィンチェンツォからすれば彼女は何を着ても可愛いのだから別に何の問題もないのだが――をなんだかんだ着てくれる絢瀬に、今すぐ強く抱きしめて頬ずりをしたい気持ちを抑えながら、ヴィンチェンツォはこれもんで、とビニール袋を手渡す。
「良い感じに全体に粉が馴染んだら渡してね」
「良い感じに……?」
「えーっと……全体に粉が馴染んだかなー? ってくらいで、渡して?」
「ううん……わかりにくいわね……わかったわ、このぐらいだと思ったら確認させて」
大雑把なヴィンチェンツォの表現に困りつつも、絢瀬は袋を受け取る。テレビでも見ながらもんでてよ、という彼の言葉に従って、彼女はテレビをつける。流れていたのは釣り番組のようで、大海原を一隻の船が走っている。釣り人が糸を垂らしているのを横目に見ながら、絢瀬はふにふにと肉をビニール袋越しにもむ。口が開かないようにきっちり締められたそれ越しにもむ肉の食感はなんともいえなくて、これがおいしい料理に変わるのだから不思議なものだと思う。
時折テレビをみながら、全体に粉が行き渡ったと思ったぐらいで、絢瀬はテレビの前から立ち上がる。スープとサラダ用にタマネギを切っているヴィンチェンツォのもとに向かうと、これぐらいでいいか、と尋ねる。
「ん……いいね!」
「ならよかったわ。他にやることは?」
「えーっと……そうだなぁ……あ、お皿を出してくれよ。サラダと唐揚げ用のお皿!」
「いいわよ。ほかには?」
「うーん……ごはんはまだ炊けてないしなぁ。お皿出してくれたら、ちょっと休んでいてよ。今日もお仕事で疲れたろう?」
熱した油の中に肉を放り込みながら、ヴィチェンツォが彼女をいたわると、しかたがない、と言わんばかりの顔で、絢瀬は手伝えることがあったら言うように、という。はぁい、と気の抜けた返事をしながら、ヴィンチェンツォは油の中で踊る肉を見守っている。
皿の入っている食器棚を開いて、下の方に並べられている大きめの皿を取り出す。唐揚げ用の平皿と、サラダを盛り付ける用の少し深めの皿だ。スープの皿もお願い、と思い出したように言われて、絢瀬はわかった、と返す。言われなければ自分から尋ねていたことなので、気にせずスープマグを二つ取り出す。真っ白の皿たちをダイニングテーブルに並べていると、ちん、と炊飯器がご飯が炊けたことをアピールしてくる。ヴィンチェンツォにごはんはどのぐらいいるか、と尋ねれば、たくさん、と元気な声が返ってくる。いつものように山盛りにもってやるか、と茶碗を取り出して、しゃもじで掬う。自分の分は茶碗七分目にとどめておいて、ヴィンチェンツォの分だけ山盛りに盛ってやる。自分では多すぎないか、と思っていても、規格外の身体の彼には少々足りないぐらいらしいので、多すぎるほどに盛ってやる。
「ごはん、よそっておいたわよ」
「わー! アヤセ、ありがとう!」
「いいのよ。で、ほかには?」
「ちょうど今スープができたんだよ。味見してくれるかい?」
そう言って小皿に少しだけ取り分けられたコンソメスープを差し出される。口をつければ、ほっとする味が口いっぱいに広がる。おいしいわよ、と言ってやれば、スープの素突っ込んだだけだよ、と返される。そのスープの素を使っても、味が薄すぎるか濃すぎるかの二択になる絢瀬からすれば、彼のつくるスープは完璧なのだけれど。これも取り分けたら良いのか、と尋ねるとお願いしても良いか、と返される。そのぐらいは余裕よ、といってスープマグによそっていく。二つのマグいっぱいにスープを入れてダイニングテーブルに持っていくと、皿に唐揚げが山積みになっていた。この山盛りの肉の大半は作った人間が食べるのだから、エンゲル係数が跳ね上がるのもしかたないな、と絢瀬はため息を吐きたい気持ちになる。とはいえ、食事そのものはおいしいので文句はそこまでないのだが。
レタスと大量のタマネギととうもろこし、ツナが乗せられたサラダも用意されて、これで今日の夕飯は完成らしい。どうだ、と誇らしげなヴィンチェンツォにおいしそうね、と褒める絢瀬。
「でしょう? ほら、ご飯にしようよ。私、お腹すいちゃったよ」
「そうね。いただきます」
「イタダキマス」
二人で食前の挨拶をして、唐揚げをつまむ。口の中に入れれば、かりかりに揚がったころもと、ジューシーな歯ごたえがかみ合う。歯で肉を押し切るたびに、肉汁が口の中にいっぱい広がる。ハーブと塩の味が広がり、これはこれでおいしい、と絢瀬は満足そうにするが、どうやらヴィンチェンツォはそうではなかったらしい。
「あら、ハーブの唐揚げには不満だったの」
「うーん……もうちょっとハーブの感じが強いと思ったんだけどなぁ」
「ああ……言われるとそうかもね」
「ああいう、おさかなのほうが合うのかなぁ」
そう言ってヴィンチェンツォはテレビを指さす。そこには釣り上げられた魚が映し出されていた。たしかに、魚のほうがハーブの良さを引き出せるのかも知れない。今度は魚で挑戦すればいいじゃない、と言ってやれば、そうだね、とヴィンチェンツォはもう一つ唐揚げをつまむ。
「あ、ドレッシング」
「あ、忘れてた」
「いいわよ、わたしのほうが近いわ」
「ありがとう」
ヴィンチェンツォお気に入りのゴマドレッシングを取り出して、取り分けた自分のサラダにかける絢瀬。しゃきしゃきのレタスと新鮮なタマネギに風味豊かなゴマがベストマッチだ。しゃくしゃくとサラダを食べていると、じいっと視線を感じる。どうしたのよ、と尋ねるといつもおいしそうに食べてくれるから嬉しいよ、と言われる。
「おいしそう? そう見えるかしら」
「そうだよ。いつもおいしそうに食べてくれる」
「そう、ならいいのだけど」
「へへ。ああ、そうだ。明日何がいいかなあ、朝ご飯」
「何があるの?」
「食パンと卵と……ベーコンもあったな。あと、牛乳はそろそろ使い切りたいな」
シチューに使えるほどはないんだけどねー、というヴィンチェンツォに、絢瀬は冷蔵庫横にかけられているカレンダーを見る。明日は土曜日で会社は休みだ。
「……明日休みだし、フレンチトーストがいいわ」
「いいね! メープルシロップ、この間買ったのがあるし、あけちゃう?」
「あら、贅沢ね。いいんじゃないかしら」
「決まりだね。フレンチトースト、久しぶりに作るなぁ」
嬉しそうな彼に、ささやかに朝食のリクエストをしただけよ、と言ってやれば、好きな人のリクエストはなんだって嬉しいものだよ、と返される。特に君は食事のリクエストが少ないからね、と付け加えられて、絢瀬はちょっとだけ目をそらす。食事に興味がそこまでなかったのもある。付き合うまでは、適当に食べていたものだから、好きな食べものというものもなかったほどだ。
「嬉しいから、明日の夕飯はハンバーグにしようかなぁ」
「やだ、あんまりお肉が続くのはうれしくないわ」
「チーズも乗せちゃうのに?」
「うっ……」
「ふふ、食べたいくせに。決定、決定」
楽しそうなヴィンチェンツォに、好きにしなさいな、とだけ言って、絢瀬はスープに口をつけた。