title by インスタントカフェ(http://saria.s53.xrea.com/)
その日のヴィンチェンツォは、少しばかり運が向いていなかった。
朝起きたときに、普段ならやらないようなミスをしていたことから始まる。第一は、スマートフォンを充電ケーブルにつなぎ損ねてしまっていたために、充電が完了していなかったことだ。その次に起きたのは、慌てて起きたために、絢瀬のルームシューズを蹴り飛ばしたこと。これ自体は蹴飛ばされた持ち主は笑っていたけれども、ヴィンチェンツォからすればちょっとショックだった。
これは関係ないが、お気に入りでよく着ていたTシャツの色褪せが激しくなってきていることから目を逸らせなくなったこと。ここまで自分に対してショッキングな出来事が続くと、どうにもこうにも嫌な気分になる。まだマシなのは、今日が土曜日だということだろうか。
「朝からついてないなあ……」
そんなことを回想しながら、ヴィンチェンツォはお昼用にきつねうどんのために、甘辛くお揚げを煮ていた。
くつくつとお揚げを煮ながら、彼はトイレに行きたい、と考えてしまった。不思議なもので、一度行きたいと思ってしまうと、それは頭から離れなくなるものだ。そこまで切迫していない。そう思いつつも、足がとんとん、と床を軽く蹴るほどには意識はそちらを向いていた。
それが油断を招いていたのだろう。つん、と鼻をつくにおいがした。ぎょっ、として鍋を見る。鍋を傾けて見れば、案の定だった。鍋底が焦げ付いていた。
「はは……今日は一日ついてないな……」
自嘲しながら、ヴィンチェンツォはダメになる前にお揚げを取り出す。タッパーにお揚げを避難させて、液をシンクに捨てる。見えてきたホーロー鍋の底は、黒く焦げていた。
焦げつきにはどうするんだっけ、とヴィンチェンツォがスマートフォンを取ろうとすると、がちゃり、と扉が開かれる。
スマートフォンを耳に当てながら、絢瀬がリビングに入ってくる。どうやら、会話先は彼女の母親らしく、いつもよりも三割増で子どもっぽい顔をしている。
「もう……母さんったら、大丈夫よ。ちゃんと食べて……あら、ヴィンス、どうしたの?」
「ちょっと代わってくれるかい? 尋ねたいことがあるんだ」
「いいけど……母さん? ちょっとヴィンスに代わるわね」
はい、と手渡されたスマートフォンを耳に当てるヴィンチェンツォは、絢瀬の母親の、のんびりした声を聞く。
焦げついたにおいが気になったのだろう。絢瀬はにおいの元のシンクを見て、ああ、と思う。焦げついた鍋底をどうにかしたくて、母親に聞こうとしているのだと。
事情を察した絢瀬は、彼の悩みが解決するまでソファーに腰掛けて、読みかけの小説本でも読むかと決めた。
「チャオ、マンマ」
『あらー、ヴィンスくん。ひさしぶりやねえ』
元気にしとった? 風邪ひいとらん?
のんびりした彼女の声に、こちらまでのんびりしてしまいそうだ。元気だよ、風邪ひいてないよ。そう返しながら、ヴィンチェンツォは本題に入る。おしゃべりが好きな彼女のペースに合わせていると、いつまで経っても本題に入れないのだ。
「あのね、マンマ。私、さっき鍋底焦がしちゃったんだ」
『あんれま、それはいかんねえ。どんな鍋だい?』
「ホーローの鍋だよ。どうしたらいいかな」
『んー……まず、ぬるま湯をね、焦げついた部分が浸るくらいに注ぐんよ』
「ぬるま湯を……」
給湯器を動かして、お湯を出す。ヴィンチェンツォは焦げついた部分が浸るまでお湯を入れると、絢瀬の母親に、そのあとは、と続きをせがむ。
『そしたらね、重曹をいれるんだよ』
「重曹? どのくらい入れたらいいんだい?」
『えーっと……たしか、一リットルに大さじ一だったかねぇ……まあ、多めにあたしゃ入れてるね』
「うんうん。探して入れてみるよ」
『入れたらね、中火で沸騰させるんだよ。そしたらね、冷めるまでなぁんもせずに放っておくのさ』
「へえ。そうすると取れるのかい?」
『そうやね。柔らかいスポンジで擦るんだよ。それでもダメなら、もう一回同じことをしてみ。取れるでよ』
「グラッツィエ、ミッレ! 助かったよ。ありがとう、マンマ」
『ええってことよ。ほんでね、ヴィンスくん。またうちに遊びにきんしゃい』
「うん、また遊びにいくよ。ああ、アヤセに代わるね」
お話の途中だったんでしょう?
そう言うと、そうそうあの子ちゃんと食べとる、と尋ねてくる。食べてるよ、相変わらず少食だけどね。そう返してやれば、満足そうに、それならええわ、と返ってくる。
『悪いねえ、あの子、わがまま言っとらん?』
「全然! もっと言って欲しいくらいだよ」
『ほーけ、ほーけ。それならええのよ。いやあ、久しぶりにヴィンスくんの声聞けてよかったわあ』
「私もマンマの声が聞けてよかったよ」
はい、とヴィンチェンツォは、ソファーに座っている絢瀬にスマートフォンを返す。受け取った絢瀬は、再び母親と話し始める。それを横目に見ながら、ヴィンチェンツォは台所の掃除用品をまとめて置いてあるカゴを探す。
探し物はすぐに見つかり、重曹をいくらかスプーンですくって鍋に入れる。少し多めに、と入れたそれをお湯に溶かして、言われたように中火で火にかける。しばらくして、水面が揺れる。ぐらぐらと沸騰したところで、言われた通り火を止める。
「そのまま冷ますんだったな……」
そのまま冷めるのを待つ。そう言った彼女の言葉通り、ヴィンチェンツォは火の消えたコンロの上に鍋を放っておく。
冷めるまでの時間潰しがてら、絢瀬の隣に座り、テレビをつける。ちょうど正午のニュースがはじまったところで、お昼ごはんにときつねうどんを作ろうとしていたことを思い出す。
きっと、お揚げはいい具合に味が染みているだろう。そう思いつつも、絢瀬は楽しげに母親と話している。長電話をするタイプではない彼女が長電話をしているのだ。お昼だからと切らせるのは申し訳なくて、ヴィンチェンツォは彼女の電話が終わるまで、彼女の隣に座って待とうと決めた。