小さく口を開けて、絢瀬はさくらんぼを口に入れる。歯を突き立てれば、果肉に刺さる感触。硬い種にあたった歯で、種の周りの果肉を削ぐ。酸っぱい中にある甘さが好きで、種を口から吐き出して果肉を咀嚼する。
二つ目のさくらんぼを口に入れて、もごもごと種の周りの肉を剥ぐ。不思議なもので、さくらんぼは一つ、二つと食べる数を増やすほどに、さらに食べたいという欲求を強くするのだ。
絢瀬もその例に漏れず、二つ目のさくらんぼを食べ終わると同時に三つ目のさくらんぼに手を伸ばしていた。
「やっぱり、季節のものはおいしいわね」
ワインレッドのソファーに腰を下ろし、ローテーブルに置かれたガラスの皿に入っている山盛りのさくらんぼを、絢瀬は食べ続けている。大型テレビは沈黙を保ったままだ。
もそもそと果肉を剥いでは、種を吐き出し、果肉を咀嚼する。それを繰り返すこと何分ほど経っただろうか。山盛りだったさくらんぼは、その頂点を崩し、嵩を減らしている。それでもまだたくさんあることには変わりないのだが。
いくらさくらんぼが次から次へと食べたくても、胃の容量には限界があるし、それ以前に同じものを食べ続けるには限界がある。
「ふう……」
多少、同じ味が続くことに飽きてきた絢瀬は、さくらんぼの入った皿を持ち上げる。シンクに置くと、冷蔵庫にマグネット式の入れ物に引っ掛けてある食品用のラップフィルムを取り出す。
ぴっ、と皿にラップフィルムをかけると、そのまま冷蔵庫にしまう。今日の夕飯のデザートとして出てくることだろう。
飽きるほどにさくらんぼを食べるという贅沢をした絢瀬は、何をしようか、と考える。彼女は、何もしない、という選択を苦手としており、何もせずにダラダラ過ごすことができないのだ。
やること、やること、とぶつぶつ言いながら絢瀬は部屋を見る。大手ネットショッピングサイトの有料会員特典でもある映画やドキュメンタリーの見放題プランでも見るか、とソファーに座り、テレビをつける。
「とは言っても、何を見ようかしら……」
インターネットに繋げたテレビで、めぼしい作品はないか探す。最近の映画から、懐かしの名作まで幅広い。
久しぶりにホラーでも見ようかしら、と絢瀬はホラー作品をザッピングする。知らないうちに色々出てるなあ、と思ったり、懐かしい作品だな、とあれこれタイトルを探す。
絢瀬は映画は派手な作品でなければ、大抵の作品は好き嫌いせずに見る。派手な作品――といっても、見ているだけで目眩がしそうなほど激しいカメラワークさえなければ、派手なアクションだろうがクライム映画だろうがなんでも見る。銃撃戦もカーチェイスも嫌いではない。ただ、派手に縦横無尽に駆け回るカメラに酔ってしまうだけで。
「……あら。ずいぶん懐かしいわね……」
スクロールバーがだいぶ下の方に来た頃、彼女は懐かしい作品の名前を見つける。それは絢瀬がある日、一人で見ていた作品だ。
ただ、一人で見ていた作品が記憶に鮮明に残るのは、その作品が素晴らしい出来だったからではない。どちらかと言えばベタで古典的なジャパニーズホラーのそれは、絢瀬の恐怖を誘うよりは、笑いを誘っていた。
むしろその作品の思い出は作品そのものにはない。それは、それを見ていた時に起きた出来事が、あまりにもインパクトが強すぎて覚えてしまったからだ。
「……ふふっ」
思わず思い出し笑いをしてしまった彼女は、懐かしい作品を再生するためにチャンネルを操作する。もしかしたら、その時起きたことがまた起こるかもしれない――そんなことを思いながら。
映像データを再生開始する。複製禁止の文字を見ながら、あの日は今日みたいに晴れた日じゃなくて、どんよりとした雲が重たくかぶさっていた日だったなと思い出す。
引っ越したばかりで、まだ家具も何もかもが家から少し浮いていたように見えた頃のことだ。
その日は、今にも雨が降り出しそうで――映画を見ている間に降り出してしまったのだ。そのときはネットショッピングサイトで見ていたのではなく、レンタルビデオ屋で借りてきていたから、返却日の明日までに止んでほしいと思っていたものだ。
土砂降りの暗い部屋で見るホラー映画は、少々陳腐な内容でもそれなりにぞわりとしたものだ。映像の荒さがますますそれっぽく見えて、部屋の電気をつけるのをやめたほどだ。
ますます目が悪くなるな、と思いながら、その時の絢瀬は一番の盛り上がりにそなえて、集中していた。身を乗り出して、ローテーブルの上に手を置いて、テレビ画面を食い入るように見ていた。
――ちょうどその時だった。
「アヤセ? かえってき――!」
「え? ヴィンス?」
ヴィンチェンツォの明るい声が途切れて、それを不審に思った絢瀬が振り返ろうとしたときには、その体に衝撃が走っていた。
目を白黒させながら、絢瀬は体をぎゅうぎゅうと強く抱きしめているものを見る。彼女の薄い胸に顔を埋めるように、ヴィンチェンツォが抱きしめていた。抱きついていた、と言ってもいいだろう。
勢いよく抱きついてきた彼の周辺には、ビニール袋が転がっている。アイスクリームのパッケージが落ちていたり、ペットボトルのジュースが転がっている。
「アイス、溶けちゃうわよ?」
「待って……待って……無理……」
「ヴィンス? あなた、ホラーだめだったかしら……?」
アメリカな賑やかなホラーは平気じゃない。
呆れたように絢瀬は尋ねる。ゾンビをショットガンで打ち抜く作品を、昨晩けらけらと笑いながらビールをあけていたのを絢瀬は知っている。
絢瀬はそう言った、ハリウッド的なホラー映画はあまり得意ではない。どうしても賑やかなのだ、カメラワークや音楽が。音で驚かせるものは苦手ではないが、得意ではない。だから、昨晩のヴィンチェンツォの映画鑑賞は途中で切り上げて布団にこもってしまったのだ。
昨日とは打って変わって、ホラー映画に恐怖している恋人の頭を撫でながら、絢瀬はヴィンス、と呼びかける。
「あなた、ホラー平気でしょう?」
「ジャパニーズホラーは別だよ! あんな理不尽なの、ダメでしょ!」
「ええ……まあ、そういうの、分からなくは……ないかも……?」
困惑する絢瀬は映画を一度止めて、電気をつけようと提案する。そのために腕を緩めろ、と。
わずかに緩められた腕を叩いて、絢瀬はヴィンチェンツォの手を握る。手を繋いでやれば安心したのか、彼はのろのろと立ち上がり、絢瀬の後ろをついてくる。
のそのそと絢瀬の後ろをついて歩くヴィンチェンツォを、大きな子熊のようだと思いながら、落ちている箱アイスを拾い、ペットボトルのジュースを拾う。拾ったそれらを冷蔵庫にしまいながら、絢瀬は無理に見なくてもいいのよ、と提案する。
それを聞いたヴィンチェンツォは、心底不思議そうな顔をする。絢瀬は怖いなら別の部屋にいてもいいのに、と細かく言ってやれば、やだ、と元気よく否定する。
「やだ、って……」
「だって、せっかくアヤセと同じ部屋にいられるのに、なんで離れなきゃいけないんだい?」
「はあ……」
「大丈夫だよ、アヤセがいれば怖くないもの」
胸を張って言うヴィンチェンツォに、これは俗に言うフラグってやつではないか、と絢瀬は理解する。
そしてそれはすぐさま回収される。一時停止していた画面を動かしたときに、白い着物を血糊で赤く染めた黒髪の女性が画面いっぱいに映り込んだとき、ヴィンチェンツォは声にならない悲鳴をあげて、絢瀬の華奢な体を抱きしめたのだ。
そんなこともあったなあ、と絢瀬が思っていると、映像はどんどん進んでいて、あたりは薄暗く、緑色の風景になっている。深夜の森林というだけで、恐ろしさを感じさせる。その中に、朱色の鳥居があれば、もう完璧だ。
このあとだったな、ヴィンスが乱入してきたのは。そう絢瀬が思い出と共に見ていると、がちゃり、と扉が開かれる。
あれ、この流れは――と、絢瀬が思うより早く、聴き慣れた声が耳に飛び込んでくる。
「アヤセ? かえってき――!」
「ヴィンス!?」
みし、と、絢瀬は骨が軋む音が聞こえたような気がした。タックルのような勢いそのまま、ヴィンチェンツォが絢瀬に抱きついてきたのだ。
ああ、この作品の思い出はこればかりなのだな。そう絢瀬は思いながら、大きな体を小さく丸めながら、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる愛しい恋人の背中を撫でた。その後ろには、パイントサイズのアイスクリームが転がっていた。