アオキさんが外回りから戻ってくる。空気に溶けるような小さな声に、かろうじて反応できた何人かが、もっと大きい声を出せよ、とツッコミながら迎えている。それにたいして、はあ、らしい返事をしながらアオキさんは自分のデスクに向かう。
支給されているラップトップパスコンをくたびれたビジネスバッグから引っ張り出した彼は、ちょうど鳴り響いた昼休憩のチャイムに顔をあげている。珍しい、外で食べてこなかったんだ。そう思ったのは私だけではなかったみたいで、何人かが外で食べてこなかったのか、と尋ねている。
「ええ、まあ。今日は弁当があるので」
「弁当? ああ、ランチボックスか」
「電子レンジで温めなおそうと思いながら、休憩時間を待っていたものですから」
「なるほどな」
男性職員は別の職員と連れ立って営業部のフロアをあとにする。何人かの職員がそうして去って行って、残ったのは自宅からランチボックスを持ち込んでくる人間だけだった。電子レンジのある給湯室に向かったアオキさん以外は、各々好き勝手ランチボックスを開け始めている。戻ってきたアオキさんも、同じように開けている。
ネッコアラのプリントされた包みと、オラチフがプリントされた包みをほどいている彼は、中のボックスを開けたときに、ふ、と頬を緩めている。
――そう、その表情が好きなのだ。
営業の評価はいまひとつでも(他部署に席を置いているのだから、仕方ないと言えばそうである)仕事は丁寧で早く、毎日定時か、わずかな残業だけで帰宅しているアオキさんを好意的に見ている人はそれなりに多い。わたしもその一人で、まあ、その、わたしとしてはとにかくよく食べる彼に、自分の作ったランチボックスも食べて欲しいのが本音である。とはいえ、そこまで親しいわけでもないから、いったいその野望はいつ叶うのやら、という状態なのだけれども。
そもそも、そんな大それた野望を持つことになったのは、彼に仕事上で助けてもらったからだ。といっても、他の人から押しつけられてきた仕事が、彼の告発によって軽減されたからである。明らかにひとりの人が書いていましたから、と事もなげに告げた彼に、私のことが好きか、そうでなければなにが理由で手間のかかることをしたのだろうかと思っている。まあ、それに関しては後日、自分にお鉢が回ってきたら困りますので、という実に彼本意な理由を別の人に話しているのを聞けたのだけれども。
――閑話休題。
とにかく、助けてもらったことがあり、それ以来彼をよく観察するようになったのだ。猫背でも高い身長(パルデアの大きな規格の自動販売機とほとんど同じぐらいの身長である。背筋曲がっているのに)、くたびれた無表情、美味しそうに食べる顔。カントー方面でよく使われるハシというカトラリーを綺麗に使っている器用さ、イケメンというよりは顔立ちがいいと称した方がよさそうな顔立ち。
こうやって観察しているうちに、独り身なのだろうと理解した。一時期中抜けや深夜残業もしていたが、今はそんな気配ちっともない。女の気配もない。なら、狙い目ではないのだろうか――というのを他の職員にしたところ、同じように彼を狙っている人たちがいて――驚かなかった。だって彼は有能で優秀だからだ。自分は平凡です、なんて言いながら、とんでもない優良物件だ。
話しかけるタイミングを伺う女達の視線など気にもしない彼は、手を合わせて食前の挨拶をしている。カントー方面ではおなじみらしい。ちょうどそのタイミングでフロアの扉が軽くノックされて、アオキさーん、と声が掛けられる。
声の主は四天王であり、人事部のチリさんだった。ちょっとええやろか、とアオキさんにお伺いを立てている彼女に、アオキさんはどうぞ、と自分の隣の空いている椅子を引く。悪いなあ、とその椅子に腰を下ろすチリさんは、これなんやけど、と話を切り出そうとして、彼のデスクにおいてある、ランチボックスに目を向ける。
「ご飯時にえろぉすいませんね。チリちゃんの話はいつでもできるさかい。休憩終わったら四天王の執務室まできてや」
「別に今でもいいのでは……」
「なに言うとんねん。それ、嫁さんの飯やろ? はよう食ったれや」
「はあ……ではお気遣いに甘えて……と言いたいのですが、なんですか、スマホロトム仕舞っていただいてもよろしいですか」
「チリちゃん、今日のアオキさんのお弁当気になるねん。ポピーとハッサクさんに見せたろ思てな」
「……」
「写真撮るまで席から離れへんで」
「はあ……」
どうぞ。そう言うと、チリさんのスマホロトムはポケスタ映えロト、と叫んでぱしゃぱしゃと写真を撮る。
わたしは、と言えばそれどころではなかった。え、嫁さんってどういうこと。アオキさんに女の匂いがしなかったのは、すでに女がいたからなのか、と混乱していると、混乱している別の女があのぉ、と声を掛けている。ついでだ。便乗して私もその女の近くに行く。興味津々な男連中まで来ている。
人が多い、とでかでかと無表情の上に書いたアオキさんと、なんやこっちでも話しとらんのかい、と突っ込むチリさん。
「部長は知ってますよ」
「部長だけかい! いや、なんや、アオキさん何年か前に結婚されてはったらしいねん。チリちゃんたちもこないだ聞いたばっかりなんやけどな」
「ええ!? お、おめでとうございます……!?」
「ありがとうございます」
「え、でも指輪してないじゃないか」
「無くしたくないのでネックレスにしています」
こちらに、とシャツの下から出てきたゴールドのネックレスに、チリちゃんもっとよく見たいわ、とチリさんがねだると、渋々と言った顔でネックレスを外すアオキさん。チェーンを止め直してから、なくさないでくださいよ、とそれを彼女に渡している。そのままランチボックスの中身をつつき出す彼を見るべきなのか、ネックレスのペンダントトップ代わりにされている指輪――チラリと見えた内側に刻印された日付が、どうみても三年前の日付であるのと、男性用の結婚指輪のデザインであることが明らかなそれに、わたしは膝から崩れ落ちたくなったのだった。