ふ、と目についたのだ。
スーパーマーケット前でバスを降りた絢瀬は、いつもの帰路を歩こうとして、目に入った鮮やかなものをよく見ようと足を止めて近寄った。
そこは花屋だった。スーパーマーケットの一角に併設されたその店の軒先に、色とりどりに季節の花が咲いていたのだ。
「きれいなものね……」
並べられている花を見ていると、奥から店員がやってくる。いかがですか、と勧められ、断ろうかと思った絢瀬だったが、ふ、とヴィンチェンツォの顔がよぎる。
同時に思い出したのは、バレンタインの出来事だ。あの時、彼は花を贈ってくれたのだ。
花がリビングにある間は、どことなく心が安らいだものだ。それを思い出した絢瀬は、店員に部屋に飾る花が欲しいという。
「お部屋にですか。どのような花がいい、とかありますか?」
「そうね……あまり香りが強くないものがいいわ。あと、大きすぎないくらいかしら」
「なるほど……でしたら、こちらはいかがでしょうか」
そう言って店員が持ってきたのは、小さな鉢だった。薄紫色の小さな花弁をつけたそれは、セントポーリアだと教えてくれる。
「十八度から二十五度くらいの気温で、カーテン越しの明るさがあれば、一年中咲いてくれますよ」
「あら……そうなのね」
「はい! 水やりは三日から四日に一度、室温程度の水でお願いしますね。土が乾いてからあげてください」
「なるほど……」
「あ、あと、お花にかからないようにしてくださいね。それと、鉢カバーや受け皿に溜まった水は捨ててください。根腐れしちゃいますから」
絢瀬が花を育て慣れていないことを察したのか、店員は細かく育て方の注意点を説明してくれる。彼女もまた、説明を手帳にメモを取る。
会計を済ませて、セントポーリアの入ったビニール袋を持って、自宅への道を歩いて行く絢瀬。
ふ、とマンションが見えたところで、彼女たちの部屋の明かりがついているのが見えて、思わず小走りにマンションに向かう絢瀬。かさかさと袋を揺らしながら、マンションの自動ドアをくぐり、エントランスを抜ける。
エレベーターを呼び出すと、すぐにドアが開く。自宅のある階を選ぶ。静かに動いたエレベーターは、少しだけ重力を感じさせて、すぐにその重みが消える。目的の階に到着したのだ。
突き当たり角部屋の自宅の玄関ドアをあけて、ただいま、と声をかける。いつも通り施錠して、ルームシューズに履き替える。
リビングに続くドアを開けると、鍋をかき混ぜているヴィンチェンツォと目が合う。扉があいた音で振り向いたのだろう。
「おかえり、アヤセ。それはどうしたんだい?」
「お花、買ってきたの」
「へえ! いいね、花はいいよ。部屋が明るくなるからね」
どんな花なのか尋ねられて、セントポーリアだと説明する絢瀬。店員から聞いた育て方も伝えて、どこに置こう、と置き場所を探す。
ローテーブルの上はどうか、とヴィンチェンツォから提案されて、絢瀬は試しにそこに置いてみる。
ちょこん、と置かれた花は、最初からここにあったかのようにしっくりくる。
「ローテーブルの上にしたわ」
「ふふ、でしょう? 私の配置センスはいいでしょ?」
「そうね。あなたのそういうセンス、本当に素敵だわ」
「褒められると嬉しくなるね。そうだ、アヤセのカレー、多めによそってあげようか」
「それはいつもの量でいいわよ」
それより、手伝えることはあるかしら。
提案した絢瀬に、ヴィンチェンツォは着替えておいでよ、と返す。そうしたらサラダを運んで欲しいな、と続ける。
分かったわ、と頷いた彼女は、ルームシューズを鳴らして寝室に向かう。絢瀬を見送った彼は、ドレッシングを冷蔵庫から取り出す。ついでに粉チーズを取り出す。
しっかり煮込まれたカレーに満足したヴィンチェンツォは、皿にご飯をよそう。絢瀬のは少し控えめに、ヴィンチェンツォのものにはたっぷりとよそう。
カレーを盛り付けて、粉チーズをかけようと言うところで、着替えてきた絢瀬が戻ってくる。さすがに冬用のもこもこしたルームウェアではなく、ネイビーに小さな白い花が散らされたワンピースだ。
カレーの上にかけられた粉チーズを見て、絢瀬は今日はチーズなのね、と言う。
「おや、好きじゃなかったかな」
「いいえ? 好きだけど、初めてじゃない? あなたがこれをトッピングするの」
「ミナコがね、カレーといえばチーズだから試せ、ってうるさくてさ」
明日報告しろって言われたんだよ。
そう笑った彼に、チーズなら粉よりもゴーダチーズを軽く火を通して乗せると美味しいそうよ、と絢瀬はいう。
「へえ! それはいいね。まあ、ミナコは知ってそうだけど……」
「そうね。きっと知ってるわね……」
「でも、今度カレーの時に覚えていたら、試してみようかな」
粉チーズがたっぷりかかったカレーを持ったヴィンチェンツォは、ランチョンマットの上に並べる。その左隣に、絢瀬はサラダを盛り付ける。カトラリーは既に用意されていて、あとは飲み物を用意するだけだ。
絢瀬が食器棚からガラスコップを用意すると、ヴィンチェンツォが麦茶を注ぎ入れる。ダイニングテーブルの端にピッチャーを置く。
向かい合いに座り、いただきます、と挨拶をする。
「お、本当だ。カレーにチーズって、合うんだねえ」
「まあ、定番のトッピングだものね」
「へえー。うん、これはまたやりたくなるね。カレーの辛さが柔らかくなってる」
「でしょう? 食べやすくなるのよ」
そんな他愛のない話を、ローテーブルの上でセントポーリアは、花弁をわずかに揺らしながら聞いていた。