職場から程近い場所にある定食屋は、まるでそこだけ古き良き昭和の世界に取り残されたようなノスタルジックな空気があった。
異動に伴って訪れた地で、舌にも身体にも合う空気と味を持つ店を探すのは大変だったが、ようやっと見つけたこの店は、終の住処をここにしようかと思わせるほど、私の好みに合致していた。
味噌汁は豆腐と小口切りのネギだけのシンプルな赤味噌。米はいつだってぴかぴかで温かい。焼き魚も煮魚も、豚の生姜焼きもどれをとっても量があって、昼に食べれば夜まで十分だ。茶が少し薄いところも好みだ。
今日も昼はいつもの定食屋、と決めて入店する。
華やかなカフェランチなるものを楽しむ女子社員も、コンビニ弁当で済ませる男子社員も、それはそれで彼らなりの理由のもとにあるのだから、私がとやかく言う必要はない。けれど、安くて量のあるこの店を利用してもいいんじゃないかな、と思わなくはない。まあ、仲良くなったら連れてきてもいいだろう。
そんなことを思いながら、私はがらがらと引き戸を開く。いらっしゃい、とふくよかな婦人が案内してくれる。関さんいつもありがとうねえ、と名前で呼んでくれる。
私もすっかり常連の仲間入りかな、と思いつつ、日替わり定食を頼む。今日の日替わり定食はトンカツ定食だ。
「関さんは初めてだねえ。トンカツには味噌かい? それともソースかい?」
「うん? ソースだが……」
「そうかい、そうかい。ご飯はいつもの量でよかったかい?」
「かまわないよ」
「あいよ。ちょいと待っててね」
あんたー、と厨房にいる旦那さんに声をかけるご婦人。この店のトンカツは味噌とソースと選べたのか。関東圏だからソースしかないと思っていたし、私もソースに慣れてしまっているからソースにしたが、この店で不味いものにあたったことがないのだから、味噌にしてみるのも良かったのかもしれない。
そんなことを思っていると、がらがら、と扉が開かれる。お昼時を少しすぎた時間だが、まだ昼を逃していた人がくるのか、と思っていると、ご婦人が声が聞こえてくる。ヴィンスくんはいつものでいいのかい、と尋ねている。
注文をする前に聞かれるほどだ。よほどそれを頼んでいるらしい人物の顔を拝もうと、声の方を見て私は驚く。
日本人離れした長身は、天井に頭がつきそうなほどだ。少なくとも、手を伸ばせば天井に手は届きそうだ。彫りの深い顔にしっかりとした鼻梁は、彼が名前から分かるように大陸の生まれなのを感じさせる。手入れの行き届いた顎髭に頬の髭は、清潔感と男らしさを強くアピールしている。
ほう、と男の私ですら見惚れる美丈夫だな、と思っていると、ご飯は大盛りにしてね、と完璧な発音の日本語が彼の口から出てくる。ここの常連で、なおかつ注文内容も分かってるほど同じものを頼む人物なのだから、日本に来て長いことは察することができるのだが、分かっていても驚いてしまう。
隣の一人がけのテーブル席に座った彼は、私の方を見る。どうやら、見すぎて疎ましく思われてしまったか、と身構えていると、彼は朗らかな声で話しかけてくる。そこに、一切の敵意は感じられない。
「こんにちは。貴方もプランゾ……じゃなくて、お昼に?」
「ええ。職場から近いもので」
「なるほど!」
私も引っ越してきてから、よくここに来ているんだ。
そう話す彼は、とても楽しそうだ。ご婦人が、またヴィンスくん人をたらし込んで、と笑いながら食事を持ってきてくれる。私の席と、ヴィンスと呼ばれた彼の席に置く。
「この人ねえ、ここに味噌を置くきっかけになった人なんだよ」
「だって、昔短期留学してた時の家にはあったし、その近くのお店でも普通に出てきたんだもの」
あると思うじゃないか。
頬を膨らませて話す彼は、味噌ダレをカツの上にざっ、とかける。おそらく、彼が短期留学していた先は愛知の方だったのだろう。
「味噌カツも人気あるみたいで良かったじゃないか」
「名古屋の有名な食事だからねえ。こんな小さな店でも食べられるんだったら、食べにくる人は来るわさ」
「アヤセもここのは全部平らげるんだよ」
「あの子の分はね、ちょっとだけキャベツ減らしてるんだよ」
「なるほどね」
それなら全部食べられるわけだ。
新しい登場人物の名前が出てきたが、おそらくヴィンスくんの連れだろうと予想する。ここでどんな人物なのか尋ねたら、きっと食事の時間がなくなるだろうことは明白だ。なんせ、ご婦人もヴィンスくんも話すのが本当に好きそうな顔をしているからだ。
「おっと、食事中におしゃべりするのは、お行儀が悪い、ってアヤセに怒られちゃうね」
「ああ、あたしも戻らないと。ごゆっくりね」
ご婦人がそそそ、と厨房に戻っていく。ちら、と見える皿の山をアルバイトの青年が丁寧に崩しているのを見るに、どうやらお昼時は大戦争だったようだ。
「ソースもいいけど、次は味噌にしてみなよ。スィニョーレ」
「スィ……? ええと、ああ。味噌も挑戦してみよう」
「イタリア語も習ってくれると、私が嬉しいな」
暇な時でいいよ。
にこにこしながら話す彼は、味噌カツ一口咀嚼すると、白米を豪快に口に入れる。大きめの茶碗に山と盛られたそれに、ここの大盛りはあれなんだな、と私はギョッとする。
四十も半ばの私には山盛りのご飯は難しいが、イタリア語を習うのも悪くはないかな、と思いながらソースのかかったカツを口に入れた。