ヴィンチェンツォはドラッグストアで買ってきた、小さな――本当に小さなマニキュアの瓶を持ち上げて、どうしようかと考えていた。
きっかけは大したことではない。ただ、ドラッグストアでたまたまマニキュアを見かけたから購入した。ただそれだけだった。化粧品コーナーの一画にある、色鮮やかに並ぶそれらのことを、ヴィンチェンツォは嫌いではなかった。むしろ、デザインをするというクリエイティブな仕事に就いているからか、華やかなものや鮮やかなものは好きな方である。
自分でつけるのは気が引けるが、アヤセなら似合うだろうな。そう思っていると、新色とポップが添えられている一つの瓶に目が止まる。
それは鮮やかなエメラルドグリーンの瓶だった。サンプルとして添えられているネイルには、青みがかった緑が綺麗に塗られている。
サンプルのネイルをまじまじと見るヴィンチェンツォは、鏡越しに見る自分の目の色に近いな、と思ってしまう。そして、ふと連想する。これを絢瀬の爪に塗ったら美しく映えるだろう、と。
気がついたら、本来の目的である洗濯用洗剤と一緒にマニキュアを買っていた。落とすための除光液とコットンまでセットで買っていて、ヴィンチェンツォは我ながら行動の速さに苦笑してしまう。レジ打ちの婦人にちら、と見られたのは彼が自分のために買ったと思ったのかもしれないが、変に動揺しなかったあたり、レジ係のプロ意識を感じる。
自宅への道を歩く彼の足取りは軽かった。自分の色に、物理的に染められるのが嬉しかったのだ。
夕食を食べ終え、絢瀬が入浴している間、ヴィンチェンツォはどうしたものか、とマニキュアの小瓶を見ながら思案する。
塗らせて欲しい。そう告げるだけなのだが、さすがに手の指はまずいかもしれない。彼女の職場がどのような規定をしているか分からないが、マニキュアは許されないかもしれない。
そうなると、やはり足か。などとヴィンチェンツォが考えていると、絢瀬がワンピースタイプの部屋着でリビングに入ってくる。ネイビーの生地に小さな花柄がたっぷりあしらわれたそれは、ヴィンチェンツォが似合うのではないか、と勧めたものだ。
自分の見る目は間違いないな、と絢瀬の白い肌を映えさせているルームウェアに満足する。
そんな彼のことなどお構いなしに、絢瀬はどうしたの、とマニキュアの小瓶を指差しながら尋ねる。
「マニキュアなんて、あなた塗る趣味あったの?」
「違うよ。私じゃないよ、アヤセに塗りたくて買ってきたのさ」
「わたしに?」
予想外のことだった絢瀬は、ぱちくりと目をまたたかせる。小首を傾げている彼女を可愛らしく思いながら、ヴィンチェンツォはそうだよ、と答える。
「嫌だったかい? それとも、会社的にまずいかい?」
「会社は……別に何も言わないと思うけど……叶渚(かんな)もジェルネイル? だったかしら、しているもの」
「なら大丈夫だね。塗ってもいいかい?」
「いいけど、どういう風の吹き回しかしら?」
手の指を差し出そうとして、ヴィンチェンツォはこっちがいいな、と絢瀬の形のいいふくらはぎを触る。足の指に塗りたいのだと理解した彼女は、履いていたルームシューズを脱ぐ。
ソファーから降りたヴィンチェンツォは、ラグに腰を下ろすと、筋肉がついているがゆえに、床に座るときは座椅子のような背もたれがないと後ろに転がってしまう彼は、ローテーブルを背もたれ代わりにする。
さらされた素足を触る。形の良い足の指を撫でると、マニキュアの瓶をあける。アセトンが揮発する匂いがわずかに昇る。わずかにブラシで取った色を、親指の爪に乗せていく。先端のエッジまで綺麗に塗るのがコツである、とインターネット上に転がっている記事に記載されていたのを思い出しながら塗って行く。
何も塗られていなかった爪が、鮮やかなエメラルドグリーンに染まっていく。
「素敵な色ね」
「見覚えがある色だと思わないかい?」
「そう言われると、いつも見ている色に似ているわね」
「そうだろう?」
「……あなたって、本当、言わせたがりね?」
「ふふ、やっぱり言葉にして貰わないと分からないだろう?」
ねえ、何の色だと思う?
楽しげに尋ねてくるヴィンチェンツォに、絢瀬は知っているくせに、と言いながら彼の額に口づけをする。それで誤魔化すつもりはなく、あなたの目の色によく似ていると返事をする。
鮮やかなエメラルドグリーン。それは絢瀬の爪を塗っている、目の前の男の目の色だ。青みがかった美しい緑は、それ自体が光っているかのように人を惹きつけてやまない、彼女が一番好きな色だ。
染められているなあ、とぼんやり絢瀬はエメラルドグリーンに染まる足の爪を見る。体躯に見合った大きく無骨な指先が、壊れものを扱うように絢瀬の足に触れているのが、少しだけくすぐったい。
真剣な表情で右足の爪を塗り終わったヴィンチェンツォは、満足そうにその足を下ろすと、左足に取り掛かる。
おそらく、ヴィンチェンツォの人生の中で初めて塗ったであろう彼女の爪は、器用な彼の手先が反映されてヨレも歪みもない。天井照明の白い灯りを受けて、エメラルドグリーンは艶やかに光る。
「器用なものね」
「自分の爪に塗るわけじゃないもの、綺麗に塗れるさ」
「それにしても、よ。本当にはじめてなの?」
「はじめてだよ。インターネットで塗り方のコツを見ただけだよ」
「そうなの? それだけで綺麗に塗れるものなのねえ……」
左足も親指から丁寧に塗って行く。爪先のエッジから塗り始め、親指の爪から塗り始める。丁寧に、ムラのないように塗る。ふわり、とアセトンの臭いが鼻をつく。おそらく、部屋中に広がっているだろう揮発したその臭いは、あとで換気扇を回す必要がありそうだ。
臭いに鼻がなれかけてしまったところで、ヴィンチェンツォは絢瀬の左足を塗り終える。あとは時間が彼女の両の爪を乾かすだけだ。爪先のエッジから、甘皮まで綺麗に塗られたそれは、天井の照明を受けてきらきらと輝いている。
せっかく綺麗に塗った爪がよれないように気をつけながら、ヴィンチェンツォは絢瀬の足のを撫でる。形の良い白い足の甲をなでながら、ヴィンチェンツォは絢瀬を見上げる。彼から彼女を見上げることはとんとないものだから、ヴィンチェンツォはなんだか不思議な気持ちになる。いつも、愛しい人はこうして自分を見ているのか、と。
じっと絢瀬の顔を見ていると、絢瀬もまた、ヴィンチェンツォの顔を見る。しばらく二人は互いの顔を見つけあって、ふふ、と笑い合う。黙って見つめ合うのが、少しだけ恥ずかしかった。
くすくすと少しの間笑い合って、笑いが収まるとヴィンチェンツォは絢瀬の顔をもう一度見あげると、穏やかに微笑みながら尋ねる。
「惚れ直してくれたかい?」
「ええ、とても」
「お礼にキスしてくれてもいいんだよ?」
「あら、あなたが自主的にしてくれたことなのに?」
でも気分がいいからしてあげる。
そう言うと絢瀬は身を乗り出して、ヴィンチェンツォの肩を支えに彼の頬にキスをする。こっちにはしてくれないのかい、と彼が唇を指さす。その仕草が、すねた子どものようで、絢瀬は思わず吹き出してしまう。
もう、と憤慨する彼に、ごめんなさい、と笑いすぎて浮かんできた涙もそのまま、彼の唇に自らの唇を重ねる。かさついた唇を重ね合わせる。何度かさえずりのように、二人は唇を重ね合わせ、離れていく。
「あら、いつもならもっと凄いことしてくるのに。どういう風の吹き回しかしら」
「してほしかったかい? なら、しようか?」
「遠慮しておくわ。せっかく塗ってもらったのに、よれちゃいそうだもの」
そういって絢瀬は足を持ち上げる。速乾タイプのそれは、もう表面は乾きつつあったが、まだ中まで乾いているのかは分からない。商品の特徴として、六十秒で乾くと書かれていたけれど、それをどこまで信用していいのか、マニキュアにおいては素人もいいところの二人には分からなかった。
とりあえず、番組をひとつ見ていれば確実に乾くのではないか。そう考えた二人は、並んでソファーに座り直す。
テレビをつけて、リモコンを操作する。インターネットに接続してあり、ネットショッピングサイトの有料会員特典のビデオチャンネルを開く。そこには二人が好きな番組や、興味がある番組がウォッチリストにたくさん入っている。
その中のひとつの番組を選ぶと、再生を開始する。その番組は海の生き物に関するもので、大きなサメや小さな魚たちが悠々と泳いでいるオープニングからはじまる。
「この番組って、誰から教えて貰ったんだったかしら」
「アキラだよ。ユウダイが彼女に教えてもらって、のんびりしたいときによく見ているって、私が聞いたんだよ」
「ああ、そうだったわね。本当……見ているだけで落ち着く画面だわね」
海は良いわね。
のんびりとした画面を見ながら話す絢瀬に、ヴィンチェンツォは落ち着くよね、と返す。
「まあ、私の住んでいたところは、海からちょっと距離はあったけれど、綺麗だったなあ」
「そうね。良い場所よね……お魚もおいしいし」
「ふふ、気に入ってくれて嬉しいよ」
他愛のない話をしている間にも、画面は穏やかなヒーリング系の音楽とともに変わっていく。穏やかな海中の映像を写す液晶画面を見ながら、二人は南イタリアの海に思いをはせていた。