ゴールデンウィークともなれば、どこへ行くにしても人混みは避けられない。それは関東地方だろうと東海地方だろうと変わらない。
人混みは好きではないから、と実家でごろごろ過ごしたかった絢瀬だったが、ついてきたヴィンチェンツォの、名古屋の水族館に行ったことがない、という一言で予定を変更した。
実家でごろごろするのは好きだが、好きな相手とどこかにいくのはそれと同じだけ好きである。そのためならば、好きではない人混みでも我慢しよう。
休日用の市営地下鉄乗り放題切符を買い、地下鉄を乗り継いで名古屋港まで向かう。休日で人出が多いが、隣に立つたびに、誰もがヴィンチェンツォをぎょっとした顔で見上げる。それもそうだろう。縦にも横にもがっちりとした体躯の人間が隣になれば、誰だって思わず振り返るだろう。
出入り口のドアに頭頂部を擦りかけながら、地下鉄をおりたヴィンチェンツォは、そんな彼らに首を傾げながら呟く。
「そんなに珍しいかな? 背の高いジャポネーゼだって、今どき珍しくないだろう?」
「あなたみたいに、しっかり体ができているのは珍しいんじゃないかしら」
「そうかい? ラグビーやアメフトをしていれば、体なんていくらでもできあがるだろうに」
「あまり、そういうスポーツをやる人がいないのかもしれないわね」
「この間、散々ワンチーム、ってマスコミは騒いでいたのにねえ」
「それもそうね。でも、学校の部活動じゃ、なかなか難しいのも事実よ」
ただ細長いだけなら、街中でも普通に見るけれどね。
そんな話をしながら、二人は改札に切符を通す。久しぶりに交通ICカードじゃないものを使ったと話しながら、駅の階段を登る。
ずいぶんと長い階段を登り、地上に出る。昼前の眩しい光が二人の目を焼く。二人とも瞳の色が薄く――ヨーロッパ出身のヴィンチェンツォは鮮やかなピーコックブルーの色だが、覚醒遺伝で絢瀬もまた瞳の色が翡翠色をしており、光を通しやすい。ましてや、今日は洗濯日和とお天気お姉さんが太鼓判を押すほど、からりと乾いた天気だ。日差しはさんさんと差し込み、遮るものなどなにもない。
その眩しさに耐えきれなかったヴィンチェンツォは、胸元にひっかけていたサングラスをとりあげてかける。絢瀬は少し目を細めるだけに留めていた。
「眩しくないのかい?」
「眩しいけど……サングラス持ってきてないもの」
「遮光レンズのメガネなかったっけ?」
「……」
「忘れてきた?」
「この間、落とした時に踏んじゃったみたいなの……」
恥ずかしそうに視線を逸らした絢瀬に、相変わらずかわいいことをする、とヴィンチェンツォは微笑ましく思う。目の悪い彼女からすれば、死活問題にも等しいのだが、今はただ、それすらも愛しい。
笑わないでよ、とむくれる彼女にごめんね、と返しながらヴィンチェンツォは水族館はどっちだい、と尋ねる。
「あっちのはずよ、たしか」
「そうなんだ。……ああ、少しだけ潮の匂いがするね」
「ずいぶん昔に行ったっきりだわ。あの時はペンギンのエリアがすごく混んでて、でももう閉館時間が迫ってて大変だったわね」
「へえ、誰と行ったんだい?」
「昔の彼氏」
ハイティーンの頃よ。
そう笑った絢瀬は、そんなに怖い顔しないでよ、とヴィンチェンツォの腕に触れる。色の濃いサングラス越しでも分かるほど彼の目は鋭く、まるで射抜くようだ。
丸太のように太い腕に、ほっそりとした絢瀬の腕が絡む。まるで、今はあなただけだと言うように。
「昔のことだから仕方ないけど、そいつと私、どっちがいい?」
「あなたに決まっているでしょう、馬鹿な人ね」
「ふふ、そうだよね」
「分かっていて聞くだなんて、性格の悪い男だわ」
「そんな男が好きなアヤセだって、私と同じくらい性格が悪いさ」
からからと笑いながら、二人はチケット売り場にできている列に並ぶ。さすがにゴールデンウィークというのもあり、家族連れが多い。小さな子どもたちが、まだなの、と少しむくれていて、母親だったり、父親だったりがそんな我が子を宥めている。
ドニチエコきっぷで割引になるはずよ、と絢瀬がヴィンチェンツォに教えると、素敵なサービスだね、と返ってくる。
「それにしても、前に行った水族館より安いね」
「市営だもの。多少安いわよ」
「へえ。それは素敵だね」
「中の食べ物も安かった記憶があるけど……値上がりしたかもしれないわね」
「安いままでいてくれると、私としてはとても嬉しいんだけれどな」
「……あなた、朝ごはん、結構食べてなかった? ホットドッグ、義兄さんのも食べていたじゃない」
「そうは言ってもね、もうそろそろプランゾの時間じゃないか」
「プランゾまで、まだ二時間くらいあるわよ……」
絢瀬があきれたため息を吐くと、後ろの、下の方から視線を感じる。列の移動にあわせながら、二人が視線の方向に目を向けると、そこには小さな女の子が二人いた。双子なのだろうか、とてもよく顔が似ている。
ヴィンチェンツォがしゃがんでチャオ、と声をかけると、外国人さんだ、と二人はきゃあきゃあと声をあげる。
「素敵なバンビーナだね。お名前教えてくれるかな?」
「いちか!」
「さちか!」
「イチカとサチカだね。二人とも何を見に来たんだい?」
「いちかはね、ぺんぎんさん!」
「さちかはねー、いるかさん!」
「いいね。私はシャチを見に来たんだよ」
「しゃちさん、かわいい?」
「どっちかっていうと、かっこいいかなあ」
「そうなんだ!」
きゃっきゃとはしゃいでいる双子とヴィンチェンツォを、微笑ましく見守っていた絢瀬だったが、彼女たちが列の二番目になったあたりで、彼の分厚い背中をとんとん、とたたく。そろそろ順番なのだと理解したヴィンチェンツォは、またね、と双子に手を振ってやる。
彼女たちはまだ物足りないのか、少し膨れっ面をしていたが、母親の告げたもう少しでチケットが買えるよ、という言葉で、彼女たちもそろそろ入場できるのだと理解したらしい。膨れっ面から、楽しみを全面に押し出したきらきらとした顔になる。
ドニチエコきっぷを提示して、二百円の割引価格で二人分の入館チケットを買う。人の流れに従いながら、入り口でチケットを切ってもらう。絢瀬の斜めがけの小さなカバンに半券を仕舞うと、ヴィンチェンツォは賑やかだね、と楽しそうに水槽を見ている。
「凄く混んでいるね。アヤセ、見えるかい?」
「休みだもの、仕方ないわ。なんとか見えてるから大丈夫よ、抱きかかえなくても」
「そうかい? それは残念だよ」
腕を広げて、いつでも絢瀬を抱え上げるつもりだったヴィンチェンツォは、肩をすくめて残念そうに笑う。人前で何をしようとしていたんだ、とあきれながら、絢瀬はちらと視線を本日のイベントと書かれているボードに向ける。
先程の双子に言っていた、シャチを見に来たんだという言葉通り、ヴィンチェンツォとシャチの公開トレーニングを見るための時間の確認だ。
十二時から公開トレーニングを行うと書かれており、どこかのタイミングで昼食にすればいいか、と絢瀬は考える。ちょうどいいね、とヴィンチェンツォの声が耳元で聞こえて、彼女は視線だけを声の方に向ける。絢瀬の肩越しにヴィンチェンツォはボードを見ていた。
「イルカショーが十一時からだ。そのあとにシャチが見られるなんて、とてもラッキーだね」
「そうね。でも、連続で見ていたら、お腹空くんじゃないかしら。プランゾ、遅くなるかもしれないわよ?」
「シャチのトレーニングが終わってから、プランゾにしようよ。きっと、その頃にはお店も空いているよ」
きっと近くにちょっとしたホットスナックのお店もあるさ。
そう笑っているヴィンチェンツォに手を引かれて、絢瀬は近くの水槽に向かう。大きなアクリル樹脂のそれの向こうに、イルカが悠々と泳いでいる。人間に媚びなど売る必要もないと言わんばかりに、水面近くをすいー、っと泳いでは遠くに移動してしまう。
子どもたちのイルカ向こう行っちゃった、と寂しそうな声が聞こえてくるが、すぐに雑踏の音に潰れていく。
人波に流されながら、二人はベルーガの水槽に向かう。真っ白な肌の彼等は、やはり悠々と水槽を泳いでは、休憩するかのように動きを止める。隣に置かれている説明の書かれた看板を見ていると、ふーん、とヴィンチェンツォは考え込む。
「どうしたのよ」
「いや、雌の最大が四メートルってあったから、どのくらいかなって思ってただけだよ?」
「二メートルねえ……あなた二人分か……」
「結構大きいねえ……」
凄く場所をとりそうだ。
真剣にそんなことを言うものだから、絢瀬は思わず吹き出す。彼等が本来いるのは、狭い水槽などではない。もっと広大で、先など見えないくらい広い大海原だ。そんなところでの四メートルは限りなく小さく、場所なんて取らないだろう。
くすくすと笑いながらそんなことを絢瀬が考えていると、ヴィンチェンツォはキョトンとした顔で彼女を見る。彼からすれば、突然笑いだしたのだから、それも仕方がないだろう。
絢瀬の笑いがひとしきりおさまった頃、ヴィンチェンツォはベルーガの水槽を後にしながら尋ねる。少し歩けば、大きな模型や、骨格標本が吊り下げられている空間に出る。
吊り下げられた大きな骨格標本を、ぐるりと歩く。背後から写真を撮る音が聞こえる。
「アヤセはイルカショー好き?」
「好きか嫌いかでいえば、好きよ」
「だろうね。でも、イルカよりアシカとか、そっちの方が好きだよね」
「あら、バレてたの」
「前に別のアクアリオに行った時、イルカショーよりも、その次だったアシカショーの方が楽しそうだったよ」
「あら、そんなにあけすけだったかしら」
「私じゃなきゃ、多分わからないくらいさ」
私は、君に関してなら、どれだけ小さな変化でも気がつけると自負しているよ。
にっこり笑ってそう言ったヴィンチェンツォに、無言で肩をすくめる絢瀬。照れ臭そうに笑った彼女は、写真撮ってもらいましょうよ、と記念撮影コーナーを指さした。