「ねえ、アヤセ」
「なにかしら」
「実は、ひとつお願いがあるんだけど」
昨日のバルサミコ酢をソースに使った豚肉の炒め物――味がどうにも二人の舌に合わず、結局残して翌日しょうが焼きとして生まれ変わらせたそれに舌鼓を打ちながら、ヴィンチェンツォは絢瀬にお願いがある、と言う。珍しい、と思いながら、絢瀬は内容を言ってみてと促す。
「今日が何の日か覚えているかい?」
「今日? ……ああ、あなたと暮らし始めた日ね」
「そうさ。だから、ね。あらためて言おうと思って」
私と一緒に暮らしてくれてありがとう。
そう言いながら、彼は絢瀬の手を取る。ほっそりした白魚のような左手を、まるで壊れ物を扱うかのように優しく触る。するり、と彼女の手を撫でながら、ヴィンチェンツォはその薬指を触る。
ここにね、そろそろ指輪をはめたいんだ。なんでもないことのように――まるで明日の天気は雨だよ、というように彼は告げる。あまりにも普通のことのように告げられて、絢瀬は一瞬その言葉の意味が飲み込めなくて――まばたきを二回して理解した。
「そ、れはその、結婚ということかしら」
「そうだね。どうだろう」
「そうね……でも、ひとつ問題があるわ」
「なんだろう? 式場選びかい? ドレスかな?」
「違うわよ。あなたに着てもらうのはタキシードにするか、和装にするかよ」
どちらも似合うと思うのよ。
困ったように笑う彼女に、それはとても難しい問題だね。そう笑いながら、ヴィンチェンツォは指輪ははめてくれるのかい、と聞いてくる。絢瀬は、もう買っちゃったの、と質問を返すと、君が欲しいと思ったら買うつもりだよ、と返ってくる。
「それはよかったわ。わたしのここに指輪をつけるなら、あなたと一緒に選びたかったの」
「よかった。先走って買いに行かなくて」
「ああ、でも悔しいわね。来週のデートで連れて行こうと思っていたのに」
先に言われちゃった。
おどけた様子で、肩をすくめて絢瀬は笑う。そんな彼女に、末恐ろしいサプライズを考えていてくれたんだね、と笑うヴィンチェンツォ。どこのジュエリーショップだい、と尋ねた彼に、絢瀬はご飯を食べたら教えてあげると返す。
冷めちゃうわよ、と彼女にたしなめられて、彼は冷めてもおいしいけれど温かいうちに食べないとね、と味噌汁に口をつける。だいぶぬるくなったそれを啜りながら、ヴィンチェンツォは断られなかったことにほっとする。それどころか、彼女の方も同じように考えていてくれたのだと分かり、棟の中に温かい感情が広がるのを感じる。
これが愛しさだなあ、と思いながらからになった器をテーブルに戻す。少しばかり冷えたしょうが焼きを白米の上に乗せる。食欲をそそる濃いめの味付けをしたタレが白米にしみこんで、それがまた箸を進める。
がっつきながら米を食べているヴィンチェンツォを見ながら、絢瀬は予定していたデートプランが少しだけお釈迦になったのを悔しく思う。彼がいつものデートだと油断しているときに、ジュエリーショップに連れ込んで婚約指輪を一緒に選ぶというちょっとしたサプライズを計画していたのだ。いつも喜びを伴う驚きを与えられてばかりだったから、たまには彼にも与えようとしたのに、と思いながら、甘辛い豚肉を口に入れる。白米と一緒に肉を嚥下して、麦茶を飲み干してしまえば、ちょっとした怨嗟の声はすぐに霧散する。
「付き合い始めて、えーっと……六年?」
「私が大学二年のころで……まだ成人してなかったから……七年じゃないかしら」
「そんなに前だっけ? びっくりしたな。時は矢のように過ぎていくっていうけど、本当にあっという間だね」
「本当ね。この家だって、もう三年も住んでいるのよ? 驚いちゃうわね」
「まるで昨日のように思い出せるよ。君と一緒に家具を選んだ時のこと。カーテンの色、君が言うようにダークレッドにして良かったと思うよ」
「そうでしょ? アイボリーも嫌いじゃないけど、壁紙が白いんだから、えんじ色だって悪くないと思ったのよ。それに、ソファーと色が似ていたもの」
「素敵なセンスだよ。最高だね」
そんなやり取りをしながら、二人は食洗機に皿を入れる。機械をスタートさせると、ヴィンチェンツォは飲むだろう、と冷蔵庫からピッチャーに入った紅茶を持ち上げる。それを見た絢瀬は、ふ、と笑って食器棚からグラスを二つとってくる。
「私たちも息が合うようになったよね」
「そうね。でも、やっぱり言葉にしないと伝わらない事ってたくさんあるわね」
「そうだよ。言わないと伝わらないよ。だから、君が私を連れて行きたいお店もちゃんと教えてね」
じゃないと、私は別のお店に行っちゃうよ。
茶目っ気たっぷりにウィンクをしながら、ヴィンチェンツォはグラスに紅茶を注ぐ。なみなみ注いだ紅茶を、絢瀬がローテーブルに運んでいくのを見送りながら、彼はピッチャーを冷蔵庫にしまう。
先にワインレッドのソファーに座っていた彼女の隣に腰を下ろすと、彼女は行く予定だったジュエリーショップのウェブサイトを開いていた。どうかしら、と彼女が提案した店は、百貨店に入っているブランドショップだ。それはヴィンチェンツォが故郷で聞いたことのあるブランドで、まさかと思って彼女の顔を見ると、にっこりと笑った絢瀬の顔が目に入る。
「ここ、イタリアのブランドなんですって」
「……別に日本のでもいいんだよ?」
「日本に住んでいるんだから、指輪ぐらいイタリアのがいいわ」
「……君って本当に最高だね! 素晴らしいよ!」
私の妻になってくれる人は世界で一番素晴らしいセンスの持ち主だね!
ヴィンチェンツォは立ち上がると、絢瀬を抱きしめてぐるりと回る。突然持ち上げられて、そのままぐるりと回された絢瀬は、さすがに驚きつつも、ヴィンチェンツォの太く、がっちりとした首に腕を回す。落とさないでよ、と彼の首筋に顔を埋めながら、楽しそうに笑うのだった。