スーパーに並んでいたのがおいしそうだったから、という理由で買ってきたさくらんぼを食べながら、絢瀬は茎を見てあることを思い出す。それは『さくらんぼの茎を結ぶことが出来る人間はキスがうまい』という俗説だ。それが本当かどうかは分からないが、そんな説が流れるぐらいなのだから、結ぶことが出来る人間はキスがうまいのだろう。それだけ舌先を器用に動かすことが出来るのだから。
そこではたと気がつく。自分の恋人はキスがうまいが、さくらんぼの茎を結ぶことは出来るのだろうか、と。
別に結ぶことが出来ないならそれはそれでいいのだが、もし結ぶことが出来たのなら、ちょっとだけ面白いな、と思う。できなくても、それはそれで可愛いと思う。そんなことを考えながら、絢瀬はもうひとつさくらんぼを食べる。
種を捨てながら、指先で緑色の茎を弄ぶ。小さいそれは、とてもじゃないが舌先で結べる気がしない。指先でも、絢瀬は器用なほうではないから難しいだろう。
そんなことを考えながら、隣に座る男を見る。もごもごとさくらんぼを頬張っては、ぺっ、とタネを捨てている。絢瀬の視線に気がついた彼は、どうしたんだいと声をかけてくる。
「ヴィンス、さくらんぼの茎って舌で結べる?」
「どうしたんだい? 突然そんなことを尋ねて」
「いえ、ね。よく言うでしょう? さくらんぼの茎を結べる人は、キスが上手だって」
あなたもそういうのが得意なのかと思って。
そう続くはずだった言葉は、絢瀬の口の中に戻っていく。厳密には、音になる前に塞がれたのだから、喉の奥に戻っていった。
尋ねようとしたそのとき、唇を重ねられて、息を奪われる。触れ合うだけの可愛らしいものではなく、舌を絡め合うような下腹部に熱を宿すような口づけだ。
逃げようにも、後頭部を大きな手で掴まれている。仕方なしに絢瀬は目を瞑り、ヴィンチェンツォの太い首に腕を回して、唇を押し付ける。そのまま彼の肉厚な舌を受け入れる。
まるで優しい生き物の顔をして入ってきたそれは、絢瀬の呼吸を奪って、唾液を絡め取る。唇同士が溶接したようにくっついているのに、隙間から、つぅ、と唾液がこぼれる。
まるでそれ自体が交接であるかのような交わりは、絢瀬が彼の首に回していた手で、その背をトントンと叩くことで終わりを迎える。
離れていく唇と唇の間をつなぐようにして、銀の滑った細い糸がつなぐ。ぷっつりと切れたそれを見ながら、ヴィンチェンツォはどうだった、と彼女に尋ねる。まだ息の荒い彼女から、じとりと抗議の目で見られても、彼はどこ吹く風だ。
「……別に、キスをしてほしかったわけじゃ……」
「でも、私がキスが上手いかどうかは分かったろう?」
「そうね。とびっきりのテクニシャンだわ」
「そうだろう? で、なんだっけ? さくらんぼの茎だっけ」
結んだことないなあ、と言いながら、彼は種と共に捨て置かれている茎の中でも、とりわけ長いものを選ぶと口に入れる。
もごもごと口を動かしていたヴィンチェンツォは、ぺっ、と手のひらに茎を吐き出す。呼吸を整えてから絢瀬がその手のひらを見ると、そこには彼の唾液でてらてらと濡れている茎があった。それは、器用に結ばれていた。
「どう?」
「凄いわね。でも、舌は大丈夫? 痛くない?」
「平気さ。アヤセも結んでみるかい?」
「やめておくわ。わたし、そこまで器用じゃないもの」
「そうかい? アヤセもキスは上手くなってきているから、きっと結べると思うけどなあ」
そんなことを言いながら、ヴィンチェンツォは食べるかい、とさくらんぼを彼女に差し出す。それを受け取りながら、絢瀬はそういえば梅はどうしようと尋ねる。
「さっき、三件先の水島さんからいただいたじゃない。あれだけあるんだもの、シロップにでもする?」
「シロップかあ。おいしそうだね」
作り方調べてみようよ。そう言いうと、ヴィンチェンツォはローテーブルに投げ出していたスマートフォンを取る。
青梅のシロップのレシピ自体はすぐに出てきたが、レシピにあった材料の単位に彼は笑う。
「凄いね。一キロだって」
「そういえば、実家の梅シロップも大きな瓶に入れていたわね……」
「瓶はトマトソースに使っているのがあるから、新しく買わなくてもよさそうだね。氷砂糖だけ買わなきゃいけないな……」
「なら、今から行く? 梅ってすぐに熟すらしいわよ」
「そうなのかい? それじゃあ、買いに行って、漬けてしまおうよ」
完成したら一緒に飲もうね。
ニコニコ笑う彼に、出来上がるまで楽しみね、と絢瀬も笑う。
ついでにお菓子も買っていいかい、と尋ねるヴィンチェンツォに、さくらんぼだけじゃ不満だったかと絢瀬は驚く。
「不満はないし、おいしいんだけど……どうしても飽きちゃうよ」
「それは……まあ、たしかに、あれだけ食べれば飽きるわよね……仕方ないわね。アイスひとつだけよ」
「本当かい? 嬉しいよ」
ご満悦の表情で財布を取りに行ったヴィンチェンツォを見送って、絢瀬は先に玄関に向かうのだった。