セミはまだ鳴き出していないが、急激に気温が上がり出した七月。ヴィンチェンツォは首筋を流れる汗を木綿のハンカチで拭いながら、外を歩いていた。
いくら夕暮れ刻とはいえ、まだ完全に陽が落ちたわけではない。ましてや陽が落ちてもまだまだ暑いのだ。したたり落ちる汗を拭いながら、彼はエコバッグを揺らしてスーパーに向かう。今からスーパーに向かえば、愛しい恋人がバス停に到着する頃に着くはずだからだ。
「暑いなあ……アイス買って帰ろうかな……」
バニラ味のアイスクリームが好きだが、こうも暑いと爽快なソーダ味の氷菓が食べたくなる。
スーパーに行ったら後で買おう、と思っていると、ちょうど交差点を曲がった市営バスがヴィンチェンツォの隣を走り抜ける。すぐ先のバス停で停まったバスから、帰路に着く人々が降りてくる。
その中の一人がヴィンチェンツォに向かってくる。絢瀬だ。
彼女はヴィンチェンツォを見つけると、革のビジネスバッグからハンカチを取り出すと、その太い首にハンカチを当ててくる。
「暑そうね」
「とてもね。買い物のついでにアイス買って帰りたいくらいには暑いよ」
「あら、いいわね。暑いもの、アイスが食べたくなるわね」
「いいのかい? 五時回ったよ?」
「今日だけよ」
ところで夕飯は何になるのかしら。
暑い暑いと言いながら、ヴィンチェンツォは絢瀬の腰を抱く。暑さよりも好きな人の熱を感じていたいということなのだろう。絢瀬もまんざらではないようで、腰に回った無骨な手を撫でている。
「さっぱりしたものにするつもりだよ。ナスの塩揉みしたのと、そうめんかなあ」
「あら、ずいぶんさっぱりしてるわね」
「こんなに暑いとね、流石に私だってしっかり食べられないよ。あと、もらった梅干しとシソがあるから、使いたいんだよね」
「あなた暑さに強いから、いつでもしっかり食べるものだと思っていたけど……そういえば、いつも夏の初めはそうめんばかりだわね」
「イタリアの夏と日本の夏は種類が違うよ。こんなに蒸し暑くて、熱が逃げない夏はバテちゃうね」
冷房がよく効いたスーパーで生鮮食品を見る。ナスをカゴに入れて、豆腐をみる。冷奴は食べられそうかい、と尋ねるヴィンチェンツォに、そのくらいならと返す絢瀬。
豆腐もカゴに入れた彼は、暑いと飲みたくなるよね、とアルコール飲料が並んでいる棚を見る。露骨な誘導に苦笑しながら、飲み過ぎは良くないわよ、と忠告しながら、缶のビールを二つカゴに入れる。
「明日は魚にしようか。タコのサラダなんてどうかな?」
「あら、素敵ね」
「よし、決まりだ。タコも買って行こう」
「アイスはいいの?」
「もちろん買うよ。アヤセも食べるかい?」
「あら、独り占めするつもりだったのかしら?」
「まさか!」
これとかどうかな。そう言ってヴィンチェンツォが手にしたのは、二つ入りのチューブ型の氷菓だった。
これいいよね、二人で分けられるのがさ。そう言ってチョコレートコーヒー味のパッケージを手にする。
「そういえば、コンビニでこれのレモン味を見かけたわね。限定なのかしら?」
「そうなのかい? それなら、今度コンビニも探してみようかな」
「本当、限定の味に弱いわね。分からなくもないけれど」
「気になるじゃないか、新しいフレーバーだよ?」
たまに外れるけど、基本的においしいからね。そう言った彼は他に買うものはあるかい、と絢瀬に尋ねる。
特にない、と返した絢瀬と手を繋いで、ヴィンチェンツォはレジに向かう。ちょうど夕飯時で混み合うレジに並んで、麦茶今冷やしてるよ、と報告する。まだ麦茶のパックに余裕はあったかと絢瀬が確認すると、この間ネットで注文したよとヴィンチェンツォは返す。
「職場の上司にね、オススメだよ、って言われた麦茶を買ってみたんだ」
「あら、オススメされるほどの麦茶なの。それは気になるわね」
「そうでしょう? 明後日には届くはずだから、新しい麦茶も楽しみなんだ」
毎日楽しみなことがあって忙しいよ。楽しそうに笑う彼に、楽しみがあるのはいいことよね、と絢瀬は返す。
「君にも楽しみなことあるかい?」
「そうね……今日の夕飯かしら」
「嬉しいことを言ってくれるね。夏バテ気味のアヤセでもぺろっと食べちゃうくらい美味しいご飯を作らないとね」
「あら、それはますます期待しちゃうわね」
賑やかな店内に、二人のくすくすと笑う声が溶けていく。列は少しずつ短くなって、一つ前の老婦人がレジカウンターに歩いていくところだった。