いつも通りの時間に目が覚める。アラームがなるよりも前に目が覚めるのは、もはや身体がこの時間に起きることを学んだからだろう。ヘッドボードのメガネを手にとり、絢瀬は大きく伸びをする。ゆるくまとめた髪紐をほどいて、今日の仕事内容を確認するためにシステム手帳を開いて気がつく。ウィークリーの欄には蛍光ピンクの色で線が引かれており、その下にはブルーブラックの色で有給、と書かれていた。そう、今日は休みだったのだ。パタンと手帳を閉じて、絢瀬はどうしたものかと考える。二度寝をする趣味はないし、なにより目はぱっちりとさせている。寝付きが良ければ寝起きもいいのが彼女なのだ。
有給を消費してくれ、と総務から泣きつかれて、しぶしぶ適当な平日に休みを取ったのを絢瀬は思い出した。特に特に予定のない休みは居心地が悪いが、特にやることも思いつかない。とりあえず寝間着を脱いで、クローゼットを開く。仕事ではないからブラウスを着る必要はないが、彼女が持っている服の大半がブラウスで占められているために、選択肢はブラウスを着ることになる。適当に薄桃色のブラウスと、ふんわりとしたオフホワイトのフレアスカートを引っ張り出す。フレアスカートはヴィンチェンツォが似合うよ、と言ったから買ったものだったな、と思いながら、絢瀬はストッキングを履くか悩む。
(別に休みなんだし、家から出ないんだから履かなくてもいいんじゃない?)
(休みだって言っても、もしかしたら出かけるかも知れないんだから、ちゃんとした格好をするべきじゃないの?)
自分の中の誰かがささやく。怠惰な自分とそれなりにしっかりしている自分。さて、どちらの意見を聞こうか、と思いながら、手はストッキングの入っている引き出しを開けていた。くるぶしまであるスカートなのだし、ショートストッキングでも問題ないだろうと、膝丈のストッキングを慣れた手つきで履く。
出かける予定はないのだけれど、どうせやることがないのだ。ならば、買い出しぐらいしようと思ってのことだった。とはいえ、買い出しぐらいはできるが、野菜や魚などの善し悪しは分からないので、消費期限や賞味期限だけで選ぶ絢瀬が買いに行くよりも、鮮度などが分かるヴィンチェンツォが買った方がいいものが買えるはずだ。そう思いつつも、いつぞや彼に言われた言葉を思い出す。どうせ、胃袋に入ればどれも同じだよ、と。――たとえ、それがお世辞であっても、だ。
(まあ、実際に買い物に行くかはヴィンチェンツォの夕飯次第だろうけれど)
今すぐに答えの出ない問答をしながら、絢瀬は着替えを終える。
今日は何をやろうかと、自宅でできることを考える。しかしながら、現在は積み上げた本はない。そして、ドラマをはじめとしたテレビ番組も自発的に見ないのが絢瀬だ。こうして考えると、改めて自分には趣味らしい趣味がないのだな、と絢瀬は苦笑してしまう。かといって、今更趣味らしい趣味を作るつもりもない。仕方がないので、数年前に買ったハードカバーの本でも読もうか、と思いながら歯を磨きに洗面台に向かう。
冷えた廊下をスリッパをならして歩きながら、基本的に在宅勤務をしているヴィンチェンツォが自宅にいるから、寂しいことはないだろうと考えていた。なんなら、仕事中の彼にコーヒーを入れるくらい──お湯を沸かすことはできるので、インスタントのコーヒーなら入れられる──はしてやろうとも考えていた。しゃこしゃこと歯ブラシを動かして、口をゆすぐ。口いっぱいにミントの香りが広がる。お湯の蛇口をひねると、すぐにお湯が出た。おそらく、朝食を作っているヴィンチェンツォがお湯を先に出したのだろう。彼は、食後に顔を洗うタイプなのだが、今日は違ったようだ。ほどよい温度のお湯で顔を洗って、タオルで拭う。そのままオールインワンジェルで顔を整えてリビングに向かう。
「おはよう、アヤセ」
「おはよう、ヴィンス」
「今日はね、ブリオッシュにしたんだ」
「あら、いいわね」
ころん、としたかわいらしいパンたちが皿に盛り付けられてテーブルに乗っている。いくらかわいらしいパンであっても、山盛りに乗せられていると少々ぎょっとするものはある。そして、その大半は絢瀬の向かいに座っている男が食べるのだから、なんとも言えない気持ちになる。そんな絢瀬のことなど気にもとめずに、カプチーノの入ったマグを手渡してくるヴィンチェンツォ。朝はこれじゃなきゃ嫌だ、と珍しく駄々をこねた彼は、給料をつぎ込んでまでフォームドミルクが作れるエスプレッソマシンを買ったのだ。まあ、日常的に使っているので元は取れているのではないか、と絢瀬は思っている。彼女が使うことは早々ないので、ほとんどヴィンチェンツォの専用となっているが。
……閑話休題。
「それより、今日は休みなのかい? 仕事のときは、そのスカート履かないじゃないか」
「ええ。休みにしたのよ」
「言ってくれれば、私も休みにしたのに!」
「思い出したのが今日だったのよ。それに、ぎりぎりで入れたから、多分あなた、有給申請出来なかったと思うわよ」
「うーん。それでもさぁ。せっかく平日に休みを合わせられると思ったのに」
悔しいなぁ、と唇をとがらせるヴィンチェンツォ。子どもじみたそれがかわいらしくて、絢瀬は惚れた欲目だなぁと思う。二メートルの縦にも横にもでかい男だ。顎髭だって生えていて、なかなかにワイルドな――他人から見れば、いささか野獣じみている彼をかわいらしいなどと思うのは自分ぐらいだ、と思いながらカプチーノを飲んでいると、聞いてるかと言われる。素直に聞いてなかった、と言えば、んもう、とわざとらしい怒った声が飛んでくるものだから、面白くなって絢瀬はくすくす笑う。
ブリオッシュとカプチーノのシンプルなイタリア人の朝食を仲良く食べて終え、絢瀬は今日はのんびりと朝刊でも読もうかと考えていると、ヴィンチェンツォが寝室に引っ込む。食後に着替えをする彼のことだから気にしないでいると、いつものゆるいTシャツ姿ではなく、きちんとアイロンをかけたワイシャツにサスペンダーで吊り下げた折り目のついたスラックスを穿いたヴィンチェンツォがリビングに戻ってくる。どっちがいいかな、とネクタイを二本持っていた。青地に黄色のストライプが入った方を指差してから、今日は出社するのね、と尋ねる。
「うん、社内ミーティングに出てくれって言われてさ」
「珍しいわね。いつもオンラインじゃない」
「本当にね。なんでも、後任の担当に会わせたいらしいんだよ」
「そう。それなら仕方ないわね」
「せっかくアヤセがいるのに! 全く! ああ、でもお昼前には帰ってくる予定だから、ご飯期待しててよ!」
「ふふ、期待しているわ」
「お隣さんからうどん譲ってもらったんだ、おいしいんだって」
ジャケットを羽織り、ビジネスリュックサックを背負うヴィンチェンツォ。きつねうどん作るからね、と絢瀬を抱きしめて頬にキスを一つ落とす。楽しみだわ、と絢瀬もまた背伸びをして──ヴィンチェンツォも少し屈んで──その頬にキスをする。
いってきます、と出かけていったヴィンチェンツォに、気をつけてね、と見送った絢瀬は、玄関の扉に鍵をかける。リビングに戻ると、テレビもついていない部屋の静けさだけが彼女を出迎える。しん、と静まりかえった部屋に居心地が悪くなる。よくまあ毎日ヴィンチェンツォはこの静かな家にいられるものだ、と感心してしまう。彼が仕事をするのは作業用の部屋であって、リビングではないのだけれど。
逃げるように寝室に向かう絢瀬。寝室にはテレビも置いていないので、ただただ静寂だけが残っていた。掛け布団を整え、枕を置き直す。いつものベッドの光景になったことに満足して、ふ、とベッドヘッドボードを見る。いつも絢瀬が寝る前にメガネを置くそこには、フォトフレームが並んでいる。そこに映っているのは絢瀬とヴィンチェンツォだ。イタリアのヴィンチェンツォの家族に顔を見せに行ったときの写真もあれば、絢瀬の実家に顔を見せに行ったときの写真もある。二人で温泉宿に泊まりに行ったときの写真もあれば、遊園地で撮影したものもある。
写真たちを見ながら、絢瀬はふと思う。最近、二人でどこかへ出かけていないと。まるきり出かけていないわけではないのだけれど、出かける理由のほとんどが買い物で、最初からデートという理由で出かけることはほとんどない。
(だったら、次の土日はデートでもしようかしら)
一度したい、と思うとどうしてもしたくなるもので、絢瀬もその例外ではなかった。
ただ、一つ問題があった。普段、その手の事柄を進んで提案するのはヴィンチェンツォのほうで、絢瀬のほうから提案したことはほとんどない。稀に、見たい映画があるから、と希望を出すぐらいだ。それだって、チケットの手配をするのはヴィンチェンツォのほうで、絢瀬はほとんど何もしていないようなものだ。
ふむ、と絢瀬は考える。自分は彼に、デートに誘うと言うことをしてこなかったのは問題ではないか、と。ならば、今回は自分で手配までしようと考える。とはいえ、土曜日と日曜日しか空いている日はないので、一泊二日で出かけるのは難しい。無理に予定を詰め込んで、翌日疲れが出てしまっては本末転倒だ。休みの日はリフレッシュのためにある、というのが二人の共通認識だ。
ならば、日帰りで行ける場所を探すべきだ。そう絢瀬は判断すると、スマートフォンを手に取る。ばふん、とベッドに転がる。普段の彼女ならば寝転がってスマートフォンを操作するなどやらないのだが、いかんせん寝室には椅子がないのだ。
(そんなことはどうだっていい――今はわたしがデートプランを練るのが先決だわ)
インターネットブラウザーアプリを立ち上げて、現在地――住所から近い場所にあるリフレッシュができて、日帰りで行ける距離にある施設を探す。第一候補としてあげられた場所はスーパー銭湯だった。これはダメである。距離が近すぎて、ドライブデートとはいえないし、温泉好きなヴィンチェンツォが延々と風呂に浸かってしまって、自分は待ちぼうけをするのが目に見えている。どうせなら、二人で楽しみながらリフレッシュができるものがいい。
あーでもない、こーでもない、と頭をひねりながら絢瀬は考える。やはり、こういうのが得意なヴィンチェンツォに丸投げするべきでは、と自分の弱い意志の部分がささやいてくるが、無視をする。それは単に意地であった。自分でやるだけのことをやらずに、彼を頼るのは彼女の信条に反するからだ。
日帰りで行くのならば、県内まで広げても良いのではないか。その案が頭をよぎり、絢瀬は県内の施設を検索する。おいしい食事がとれるところから、きれいな季節の植物が見れる場所までジャンルを問わずに検索していると、スマートフォンの画面上部にバナーがかかる。今調べ物をしているのに、と若干憤慨しながら絢瀬は通知バナーを見る。それはヴィンチェンツォと連絡を取り合っているメッセージアプリからのものだった。休みの日にわざわざ彼女の私用携帯を鳴らすのは彼しかいないので、先ほどまでの怒りを霧散させながら絢瀬はバナーをタップする。
メッセージアプリのロゴが画面いっぱいに広がり、アプリが起動する。未着メッセージを表示させると、そこにはヴィンチェンツォから今から帰宅する旨の連絡が入っていた。かわいらしい熊のスタンプまで添えられている。既読通知をつけて、待っているから気をつけてね、と返信を送る。そっけない文面に、自分もなにかしらスタンプ画像を送信するべきか悩んで、アプリを終了する。自分の性格ではないし、普段やらないことをして彼が有頂天になって怪我でもしたら困る。そんなことを他人に言えばありえない、と返されるのが目に見えているが、一度やらかしているのを知っているために、絶対にないとは言えなかった。
スマートフォンの画面を落とす。あれだけ集中して探していたというのに、メッセージが来たためにそれらの集中力は霧散してしまったのだ。よさげな施設はいくつかあったような気がするので、あとで見直そうと思いながら、絢瀬は寝転がっていたベッドから起き上がる。ベッドヘッドボードに置いてある愛用の目覚まし時計は、十二時半をすぎていた。意外と長くかかったんだな社内ミーティング、などと思っていると絢瀬の腹がぐう、と鳴る。食事をしてからそれなりに時間が経っていて、意外と頭脳労働をしたからだろう。
誰にも聞かれなくて良かった、と思いながら、絢瀬はリビングに向かう。戻ってくるヴィンチェンツォに、コーヒーでも入れてやろうと思ったのだ。とはいえ、この家にはアイスコーヒーは用意していないから、お湯を沸かして淹れたホットコーヒーを冷ますしかないのだが。しかし、今から淹れれば、ちょうど冷蔵庫で冷やしている間に帰ってくるはずだ、と見当をつけた絢瀬は吊り下げ式の戸棚からヤカンを取り出すと水を入れた。
料理は出来ない彼女だが、お湯は沸かすことが出来るのだ。