title by シャーリーハイツ(http://adam.mods.jp/ra/)
中途採用の正社員としてこの会社に採用されて、早いもので一年が経とうとしていた。だいぶ社内の空気にも慣れてきて、仕事も軌道に乗ってきた。後輩も出来て、教えることが増えて楽しいことばかりではないが、なかなかに満足した生活を送っている。残業代はきちんと出るし、働けば働いた分だけきちんと前進しているような気がする。
そんなときだった。自分の先輩が妊娠を機に産休をとることになったのは。育児休暇なども完備されているのだから、それを使えばまだまだ働けるし、なにより今後の子育てにかかる費用のことを考えると辞めにくいんだよね、と笑う先輩を見たのは数ヶ月前のことだった。とはいえ、先輩の仕事をいくらか引き受けざるを得ないのは事実だ。そのうちの一つが、他部署のインハウスデザイナーとのやりとりの引き継ぎだった。
「大丈夫大丈夫。悪い人じゃないから」
そう笑った彼女に、どのような人なのか尋ねたのは先週のことだ。会うまで黙ってちゃダメか、といたずらっ子の表情をする先輩を拝み倒して、頼み込んだのはランチの時だ。しょうがないなぁ、と苦笑しながら、彼女はぴん、と指を三本立てる。ヒントだけね。そう言うと、彼女は口を開く。
一つ。曰く、縦にも横にもとても大きい。
二つ。曰く、俺と同じ転職組で、元々は製作会社でデザイナーとして働いていたらしい。
三つ。曰く、スマートな紳士だそうだ。
当然だけど、デザインのセンスもスキルもあの部署ではずば抜けてるよ、と補足説明が入る。その内容を聞いて、俺は首をひねる。そこまで数は多くはないが、デザイン部署に顔を出したことがないわけではない。しかし、そこの部署で今の三つに該当する人物を見かけたことがない。たしかに、いつも共有パソコンではない、一つだけ空いているデスクがあるのは知っていたが。そういうと、先輩はその席の人だよ、と言う。
「いや、でも俺、その人見たことないですよ?」
「そりゃあ、そうだろうなぁ。彼、在宅勤務の人だから」
「え、そうなんです?」
「在宅勤務がしたいから転職してきた人だよ。あの部署だと有名だよ」
「そうなんだ……」
ちょっとだけ、そりゃあ会ったことねえよ、と思いつつ、先輩にまだ打ち合わせまで時間があるから、手洗いにでも行っておいで、と言われる。俺はならちょっとだけ、とデスクを立つ。部署からトイレまでそれほど距離がない。ありがたい限りだ。
扉を開けて小便器の前に立つ。社会の窓を開けて用を足していると、トイレの扉が開かれる。まあ誰かしら来るよな、と思いながら便器に向かって出すものを出していると、後ろを通った人が目に入る。隣のブースで用を足している彼は、縦にも横にも大きく、ひどく目立つ人物だった。骨がもともと太いのか、筋骨隆々という言葉がこれほど似合う人物もいないだろう。俺だってそこまで背が低いわけではない。百八十はないが、百七十後半はある。しかし、その男性はそれよりもずっと背が高かった。もう、二メートルぐらいあるんじゃないだろうか、と思うほど背が高い彼に、俺は先輩が言っていた今日の引き継ぎ内容を思い出す。確か、その人物は縦にも横にも大きい人物ではなかっただろうか。
(いやいやまさか。その人物がここまででかいとは限らないし)
腕とか丸太みたいにでかいけど。実際に丸太見たことないけど。
俺は社会の窓を閉めると、そそくさと手を洗ってトイレをあとにする。部署に戻ると、先輩が遅いぞぉ、と笑っていた。時計を見ると、もうそろそろミーティングスペースに移動していないといけない時間だった。慌てて用意しておいた書類やらなにやらを抱えて、俺は先輩と一緒に部署をあとにする。少し歩くとミーティング用にと用意された開けた空間がある。まるで、ちょっと小洒落たカフェのように家具が配置され、目隠しのパーティションも小洒落たデザインのそれらだ。
一番奥のテーブルに腰をかける。先輩と時計を見ながら待っていると、大柄な――縦にも横にも大きくて、遠目からでも筋骨隆々なのが見て取れる――男性が歩いてきた。近づいてくる人影を見て、あ、と思わず声が出る。
「どしたの」
「いや……さっきトイレですれ違った人だなって」
「お、もう会ってたのかぁ」
「え、先輩まさか」
「まさかまさかのまさかだよ」
おーい、ヴィンスくーん。
先輩は立ち上がって手を振る。それが見えたのか、ヴィンスと呼ばれた男性も手を上げる。手のひらもなかなかに筋肉質だ。手のひらまで筋肉が発達してるって、絶対インドアな仕事よりも向いている仕事があるだろうと思う。ボディービルダーとか。
そんな失礼な事を思っていると、ヴィンス氏が自分の前の席にノートやら資料やらを置く。青い太めのセルフレームのウェリントンタイプのメガネをかけていた彼は、それを外すと、す、と手を差し出してくる。ああ握手だ、と認識するまで少し時間がかかったが、その手を取る。見た目よりもよほど無骨な彼の手だったが、取ったその手はとても温かく、思いのほか力一杯握られることはなかった。当たり前か。
「ヴィンスくん。こっち、後輩の黒崎くん」
「黒崎久俊です。ええと、」
「ヴィンチェンツォ・ガブリエーレ・フェッリーニっていうんだ」
「ヴィ……?」
「ヴィンチェンツォより、ヴィンス、って呼んでくれると嬉しいよ」
「あ、はい。ヴィンスさん」
めっちゃ日本語ぺらぺらやんけ。
見た目はがっつりヨーロッパな雰囲気だし、顎髭あるし、ツーブロックにソフトモヒカンだしでなかなかアレである。迫力のある男性だ。よく言ってワイルドなダンディだ。めちゃくちゃ筋肉で溢れてるけど。なんというか、そんな人物が完璧なイントネーションで日本語を操るものだから、ちょっとだけ、いや、かなり困惑した。まあ、外国人らしいイントネーションで日本語を話すのを求めていたのかと言われると……別にそういう訳でもない。
勝手に俺が困惑していると、ああ、とヴィンスさんは合点がいった顔をする。さっきトイレであったねえ、と笑う彼に、ああこれはとてもいい人だと直感で思う。笑った顔は子どものように無邪気で、こんな人が悪い人でも怖い人でもあるわけがないと理解する。
実際、座ってから諸々のやりとりを済ませている間に、それが真実だというのがよく分かる。細かいところにも気がつく人だったし、雑談の幅も広い。こういう人がもてるんだなぁってつくづく思い知らされるが、ヴィンスさんはもてて当然の人種なので嫉妬すら沸かない。あれやろ、美人の嫁でも持ってるんじゃなかろうか。左の薬指に指輪はしていないけれど。
引き継ぎやらなんやらが終わると、ランチにはちょうどいい時間だった。今日の食堂のご飯はなんだったかな、と思いながらヴィンスさんを見る。どうせならもうちょっとおしゃべりして、友好関係を深めたい。どう切り出そうかと思っていると、先輩がそうだそうだ、と思いついたようにヴィンスさんの肩をぺしぺしと叩く。
「どうしたんだい」
「いやいや、ヴィンスくん。このあとランチどうよ。今日は白身魚のフライ、タルタルソース付きにしようと思うんだよね」
「ああ、もうこんな時間か……」
「そそ、だからそうかなって。どうせ帰るんだろう? だったら、その前にお腹膨らませていきなよ」
そういやこの人、在宅勤務の人だった。打ち合わせのためだけにわざわざ出社させてしまったのは申し訳ないなぁ、と思っていると、ヴィンスさんは顎髭を撫でながら、今日のランチの生姜焼き定食は気になっているんだよね、という。結構がっつりしたものを選ぶなあ、そりゃあその体型を維持するならそうなるよなぁ、と思っていると、困ったようにヴィンスさんは笑う。
「そうしたいのは山々なんだけどね――家にガッティーナを置いてきてしまったからさ」
待たせてるから帰らなきゃね。
肩をすくめておどける彼に、それじゃあしょうがないね、と笑う先輩。俺はガッティーナとはそもそも何かが分からない。スペルがわからないなぁ、と思いつつも、じゃあ今度からはオンラインでよろしく、という彼に頷いていた。多分、この人、次から俺と会うときは確実に画面越しだ。
ミーティングスペースから去って行った彼を見送って、俺はスマートフォンの画面をつける。インターネットブラウザーを立ち上げて、ガッティーナ 意味、と検索する。先輩が画面をのぞき込んでくる。やはり先輩も知らなかったのだろう。強調スペニットで上位に出ているページ曰く、ガッティーナはイタリア語で子猫をらしい。しかし、目についたのはその下だった。さすがの先輩も苦笑していた。
「いやいや……さすがイタリア紳士」
「うわー……のろけっすか……」
イタリア人男性が恋人を呼ぶときの言い方、といった内容のページタイトルが表示されていて、苦笑せざるを得なかった。早く会いたいが為にランチを断るのだから、相当その子猫ちゃんに首ったけなんだなぁ、と思いながら俺はブラウザーを閉じた。
「先輩はヴィンスさんのガッティーナはご存じなんです?」
「いやあ、相当入れ込んでる女性がいるっていうのは聞いたことがあるけど、どんな女性なのかまではさっぱり」
「先輩も知らないのかぁ」
「ああ、でも、デザイン部の人なら知ってるかも知れないね」
ランチのときに相席すれば聞けるかもよ。
そう笑った先輩に、そんな上手くいきますかね、と俺は苦笑した。