「ねえ、アヤセ。海に行かない?」
「もう夜中よ。行ったところで、真っ暗で何も見えないわよ」
金曜日の夜のことだった。
二人、いつものように並んでソファーに腰を下ろしてテレビを見ていた。映画のテレビ放送を、時折あの料理おいしそう、とかそんなことを言いながら見ていた。
ノーカット放送だった映画のエンドロールを見ていると、ぼそりと呟くようにヴィンチェンツォがこぼしたのだ。海に行こう、と。
時刻は二十三時を回っていて、たしかに今から海に行っても真っ暗で何も見えないだろう。月明かりが照らす波は美しいかもしれないが、と絢瀬はいう。それもそうだね、と言う彼の顔はどこか寂しそうで、絢瀬は少し驚く。そして、気がつく。
白い街並み、青い海。陽気で家族思いな人々。
──そういえば、さっきの映画、ロケ地はイタリアだったな。
彼が生まれ育った、南イタリアの海辺の話だった。はちゃめちゃなストーリー展開はなく、ただ老夫婦の生活に焦点をあてた作品だった。しずかで、おだやかで、時として賑やかにパーティーをする話だった。
──これは、センチメンタルか。
絢瀬はまとまった休みでも取れない限り、なかなか実家に帰れない彼が、郷愁の念にかられているのだと察する。普段は陽気で、時として実家の悪口を冗談まじりに語る彼でも、たまには寂しさを覚えるのは当然だろう。イタリア人は家族のつながりが強いと聞くから。
ああ、かわいらしい。そう思った絢瀬は、月明かりの海よりも、と口を開く。
「わたし、夜明けの海の方が好きよ」
「うん?」
「どうせ行くなら、夜明けの海を見ましょうよ」
明日、晴れるのかは知らないけど。
暗に、寂しさを紛らわせるのに付き合う、と、そう微笑んだ絢瀬に、ヴィンチェンツォは目を大きくする。それから、そうだね、と言う。その目は少し嬉しそうだった。
夜明けまで少し、時間がある。絢瀬は大きく伸びをすると、日の出って何時だっけと言う。スマートフォンをいじりながら、六時半だって、と調べるヴィンチェンツォ。
「なら、少し寝られるわね。六時くらいに起きればいいかしら」
「そうだねえ。車飛ばせば、そこまで時間はかからないよ、多分」
「そうね。ふぁ……」
大きく伸びをした彼女の頭を撫でながら、ヴィンチェンツォは寝るかい、と尋ねる。そうね、と言った彼女は、スマートフォンのアラームを確認する。慣れた手つきで時間をいじって、画面を消灯する。
ぺたぺたとルームシューズを鳴らして、二人は冷えた廊下を歩いていく。どちらからともなく手を繋いだのは、寒いからだと要らない言い訳をしながら。
「眠い?」
「ん……少し、ね」
「そっか」
それきり、二人の間に空白が降りる。沈黙は二人とも苦手ではない。どちらかと言うとおしゃべりなヴィンチェンツォも、場をつなぐために無理に口を開くことはない。
静かな車内に響くのは、エンジンの音だけだ。ラジオをつけるのも、なんだか億劫だった。賑やかな音楽も、近隣のニュースを聞くのも、なんだか違う気がした。
優しい沈黙が下りるチョコレートブラウンのボディの車は、人の少ない道路を走っていく。夜明け前の暗い道を、なかなかの速度で走っていく。
後ろに流れていく街並みを見ながら、絢瀬はなかなか暖かくならないエアコンに手をかざす。朝の冷え切った空気で、指先は痛いくらいに冷たい。
少し暖かい空気に触れた指先は、痛みが少しマシになる。それでも動かすと痛いけれど。
どれだけのあいだ、二人の間に沈黙が降りていたことだろうか。静かな声で、ヴィンチェンツォは見えてきた、と言う。浅葱色の明るい瞳を細めて、遠くにある懐かしいものを見るような目で。その目に映っているものに自分はいるのか、と少し絢瀬は疑問に思う。
いなくても構わないが、いるなら少し嬉しい。そう思って、柳色の目をそっと伏せる。
「……見えてきたよ」
「……そう」
小高い丘を走っていたらしい。丘の一番高いところから下り始めた車の前には、深い夜を未だ色濃く残した海が遠くに広がっていた。
東の空が薄く明るくなる。日の出だ。海から夜の色が少しずつ薄くなっていくように、車は海が近くなる。
カーブをゆるく曲がりながら、海に近づいていく。空はだんだん白んでいく。ヴィンチェンツォがコインパーキングに車を停めるころには、空は水平線にオレンジの光をこぼしながら、夜の紺色を白い光が切り裂いていた。
「きれいだね」
「そうね」
「……寒いね」
「冬だもの、寒いわよ」
寒い、と言いながら絢瀬は砂浜に降りていく。さくさくとスニーカーが靴底の跡を残していく。
波打ち際まで近寄っていく綾瀬に、ヴィンチェンツォは濡れるよ、と近寄る。大丈夫よ、と微笑む彼女の足元は、濡れるすれすれだ。
ざぱっ、と波が大きく膨れる。先程までの小さく往復していたのが戯れだったと言わんばかりに膨れたそれは、二人の足を濡らす。履き潰して、随分くたびれたスニーカーはぐっしょりと濡れ鼠だ。
それがなんだか面白くて、二人は同時に吹き出すと、くつくつと笑う。
「あら」
「ほら、濡れた」
「あなたもね」
「本当だ」
「ふふ、なんだか馬鹿みたいね。これだけ近かったら、濡れても文句言えないわ」
はあ、笑った。目尻に溜まった涙を拭って絢瀬はヴィンチェンツォの顔を見る。そもそも、海にきたがっていたのは彼だ。
満足しただろうか、とその顔を見た。その顔にはいつもの表情が浮かんでいて、昨晩浮かべていたセンチメンタルなんてかけらもない。それがなんだか、もったいないような、なくなってよかったのか、絢瀬にはよくわからなかった。
とかく、いつものヴィンチェンツォならいいか、と思っていると、お腹すいたね、とまるで今思い出したように言う。それもそうだろう。朝起きて、歯磨きと洗顔、最低限の身なりだけ整えて家を出たのだ。そのときは何かを食べる、という行為をかけらも頭の中になかったな、と絢瀬は思い出す。
「そうね。何も食べてないもの……あら、何も飲んでないんじゃないかしら」
「それはダメだよ。何か食べよう」
「こんな時間にお店開いてるかしら」
「二十四時間営業のファミレスくらいないかな」
コンビニのホットスナックだけじゃ、中途半端すぎてお腹空く自信があるよ。
すっかりいつもの調子を取り戻した彼に、絢瀬はどうせなら魚が食べたいという。
「この時間じゃ、お店開いてないと思うよ?」
「そこが問題なのよね。ああでも、海にきたから、やっぱり魚が食べたいわ」
「気持ちはわからなくないけど──ああ、あそこなら食べられるんじゃない?」
そう言ってヴィンチェンツォが指さしたのは、少し離れたところに建っているホテルだった。遠くから見える看板をインターネットで検索すれば、そこはシティホテルだった。
「あら、ホテルで朝食なんていいわね。贅沢な休日だわ。残念なのは、わたし、化粧ひとつもしてないことだけど」
「アヤセはなにもしてなくても十分綺麗さ」
絢瀬の綺麗に切りそろえられた髪に口付けを落としながら、ヴィンチェンツォは囁く。
それを押し返しながら、絢瀬は違う、という。
「そうじゃないのよ。人前に出るのに、なにもつけていないことが不安なのよ。せめてリップでも持ってくればよかったわ」
「そうなのかい? それは悪いことをしてしまったね。でも、食べにいくだろう?」
「うっ──まあ、そうね。お腹すいてるもの」
そんな話をしながら、二人はコインパーキングに戻る。支払いを済ませて、車をパーキングから出して、ホテルの駐車場に向かう。
車をそこまで走らせずに着いた駐車場で事情を説明すると、宿泊ではない客には近くのコインパーキングを勧めていると告げられる。ホテルのすぐ隣のコインパーキングに車を停めて、駐車場からフロントに続く通路を歩いていく。
波をかぶったスニーカーは、だいぶ乾いてきたが、まだしっとり濡れていて少し気持ち悪いが、ここは我慢である。
フロントで宿泊ではないか、朝食だけ取ることは可能か、と尋ねる。外来客の朝食代を支払うと、朝食券を渡される。
朝食会場で券を渡すと、ビュッフェ形式だと説明を受ける。トレイや食器の位置を確認し、トレイに真っ白の皿を一枚乗せて、絢瀬は炊き立てのご飯と鯖の塩焼きを取る。パンやポテトも気になってはいたが、今は魚が食べたかったのだ。
漬物や味噌汁をとりわけ、適当に空いている席を確保する。飲み物をとってこようと思っていると、ヴィンチェンツォがやってくる。その皿には山とパンが盛られ、パスタが乗せられていた。
「朝からよく入るわね……」
「お腹すいてるからね。アヤセ、何か飲むかい?」
「じゃあ、コーヒーがいいわ」
「わかった。とってくるから、座っててよ。ヨーグルトはいるかい?」
「じゃあ、それも。ああ、ヨーグルトにはブルーベリーソースがいいわ。あったらお願い」
「任せてよ」
そう言うと、ヴィンチェンツォはビュッフェの方に向かっていく。せっかく飲み物を取りに行ってくれた彼には申し訳ないが、さすがの絢瀬も空腹には勝てそうになかった。
素直に空腹を訴える胃のままに、味噌汁に口をつける。優しい味噌の味が口いっぱいに広がる。適当によそったから、豆腐などの具材はあまり入っておらず、少し物足りなさを感じながら、彼女は味噌汁をすする。
すっかり器を空にすると、ヴィンチェンツォが新しいトレイに、ヨーグルト二つとフルーツカクテル、コーヒーの入ったマグカップを持ってくる。
「おや、もう食べていたのかい」
「お腹すいてたのよ。おいしかったわ」
「それはよかったよ。さて、私も食べようかな」
小さなクロワッサンを一口で食べる彼を見ながら、ミニサイズのクロワッサンは彼が持つとさらに小さく見えるな、と絢瀬はぼんやり考えながら、鯖の塩焼きに箸をつけた。