絢瀬は甘いものはそこまで好きではない。嫌いか、と問われれば、嫌いではない。そう答えはするが、好きかと尋ねられれば、そうでもない。そう、答える程度だ。要は、あれば食べるが、そこまで好んで食べないのだ。
それでも、まるで食べないわけではない。時として、甘いものが食べたいなあと思い、コンビニでケーキを買うくらいはする。
だから、今日ケーキを買ったのも、ただ甘いものが食べたいなあ、というぼんやりした欲求を叶えるためだった。
冷蔵庫にしまっておいたケーキを取り出して、皿に乗せる。甘そうな生クリームがたっぷり乗せられたそれは、買うときはこのくらい甘くてもいいや、と思っていたのだ。しかし、一度冷静になってみれば、こんなに生クリームが乗っていたら胸焼けがすると思ってしまう。
皿に自分用のケーキを置いて、別の皿にヴィンチェンツォのケーキを並べる。自分だけ食べるのは申し訳ないし、けれど同じものは在庫がなかったから別のものだ。
皿を二つ持ってソファーに向かう。バラエティー番組を見ていたヴィンチェンツォは、彼女が座れるように少し移動する。自分の前と彼女の前に置かれた皿を見て、おや、とヴィンチェンツォは目を丸くする。
「あれ? アヤセ、ケーキ買って来てたの」
「ええ。それ、あなたの分だから」
「さすが! ……あれ、私のはアヤセのとは違うみたいだね」
「ごめんなさい。これ、ひとつしかなかったのよ」
「いや、買って来てくれるだけ嬉しいよ。でも、そっちも一口欲しいな」
「いいわよ」
自分には甘ったるすぎる、生クリームたっぷりのケーキを譲るか悩んで、でもこれが食べたかったし、とキャラメルのミルクレープを譲る。
ヴィンチェンツォは喜びながら、フォークでミルクレープを一口大に切り分ける。コンビニのケーキもバカにできないよね、と言う彼に、そうね、と返す絢瀬。
肯定したものの、自分の選んだケーキは、おいしい、というには甘すぎた、と絢瀬は後悔する。キャラメルクリームにホイップクリームが山と盛られているだけでも甘いのに、その上にキャラメルソースがかかっているのだ。いくらほろ苦い味のキャラメルクリームが紛れているとはいえ、甘いものが得意ではない彼女には、過ぎるほどの甘さだった。
もそもそとフォークを突き立ててホイップクリームを口に入れている絢瀬をよそに、ヴィンチェンツォはあっという間にミルクレープを平らげる。
「おいしかったよ、ありがとう」
「気に入ったなら、なによりだわ」
「……ところで、アヤセ。それ、甘そうだね」
「……ええ、とても」
暗に、君が平らげるのは難しいのではないか、と言われたことに、絢瀬は苦笑する。素直にヴィンチェンツォに譲ればよかったと思いながら、ホイップクリームとキャラメルクリームが混ざり、その上からキャラメルソースがかかっている部分を一口取り分けて、彼に食べさせる。
雛鳥のように食べさせれば、甘くておいしいね、と嬉しそうに頬を緩める姿に、全部押し付けようか、と絢瀬は考えてしまう。
下に見えるショコラ生地に、ここは甘くなさそうだと思って掬い上げる。口に入れた瞬間、いっぱいに広がるチョコレートケーキの味。しっかりと、そしてどっしりとした重さを感じるそれに、買った過去の自分を恨みたくなるほどだ。
甘ったるすぎる、ヴィンスに食べさせるか。そんなことを思っていると、そっと口元を拭われる。ぎょっとして隣を見ると、ヴィンチェンツォが太い指で絢瀬の口元についたクリームを拭っていた。
「ついてたよ」
「あ……それなら、普通に声をかけてくれれば」
よかったのに、と続く声は途切れた。
ぺろり、と指についたホイップクリームを舐めながら、おいしいね、とヴィンチェンツォは笑う。赤い舌先でホイップクリームをなめとった彼は、まだついてる、と絢瀬の口元を舐める。
咄嗟に目をつぶった彼女の手から皿を取り上げ、ローテーブルに置く。かたり。皿が置かれる小さな音がやけに響く。テレビのスピーカーから聴こえる音声が、やたら遠い。
厚い舌でべろり、と絢瀬の唇を舐めたヴィンチェンツォは、おいしかったよ、と彼女の耳元で囁く。
「ふ、つうにとりなさいよ」
「ふふ、顔真っ赤だ」
「驚いただけよ。まあ、ホイップクリームがおいしかったなら、わたしの分、食べてもいいわよ」
「いや、私はいいよ」
珍しいこともあったものだ、と絢瀬は思った。ヴィンチェンツォは甘いものが好きで、絢瀬が食べきれない甘いものは、彼が喜んで残りを食べるのが定例だったからだ。
そんな彼が、自ら食べることを遠慮した。絢瀬はどこか具合が悪いのか、と尋ねるが、そんなことはないよ、と笑って流される。
ほら食べてよ、とフォークに一口分の最後のホイップクリームが盛られる。食べさせられるがままに口を開き、ホイップクリームの乗ったフォークが口に入った瞬間、口を閉じる。引っこ抜かれるフォークを見ながら、口の中のクリームを味わう。
やはり甘い。そう思っていると、顎を掴まれて、横を向かされる。目の前に影が落ちる。あ、と思う暇もなく、ヴィンチェンツォの顔が近づいて、唇に慣れた感覚が伝わってくる。ややかさついた、厚めの唇が触れて、ぬめったものが絢瀬の唇を割り開こうとする。
「ン……ふっ……」
口内に舌の侵入を許すと、厚いヴィンチェンツォの舌が、絢瀬の舌を絡めとる。舌を絡ませ、唾液の交換をしているうちに、絢瀬の息は上がってくる。
まるで貪るように絢瀬の口内を蹂躙していったヴィンチェンツォは、十分に満足したのか、すっと唇を離す。二人を繋ぐように銀の細い糸が伸びて、千切れる。
「ちょっと、ヴィンス……」
「いやあ、おいしそうで、つい」
「おいしそう、って、あなたね……」
「ケーキ、おいしかったよ」
そう言うと、ヴィンチェンツォはもう一口取り分ける。もうクリームはないから、ショコラ生地だ。はい、と絢瀬の口元に持っていってやるが、彼女はつん、と横を向く。先程の唐突なキスによほどご立腹なのだろう。
もうしないよ、と困り顔で言う彼を、無言で睨めつける。じとり、と彼女に睨まれて、ヴィンチェンツォはフォークを持っていない手を肩まであげる。白旗を振るように、危害を加えないことをアピールする。
それに満足したのか、納得したのか、絢瀬はおずおずと口を開く。差し出されたショコラを口にして、やはり重たい、と心の中でぼやく。
そうそう、と何かを思いついたらしく、彼は絢瀬の耳元に唇をよせる。
「ホイップクリームさ」
「ええ」
「アヤセの味がした」
「! ちょ、っと、あなた、何言って、」
「はい、あーん」
「むっ」
「ふふ、おいしいね?」
楽しそうにフォークを差し出してくるヴィンチェンツォに、完全に遊ばれていることに気がつく絢瀬。そういえば、最近は少々ご無沙汰ではあった。もしかして、それとなく誘われているのをことごとく断っているから、その当て付けか、と絢瀬は考える。
そんなことを考えていると、私も食べたいなあ、と言うヴィンチェンツォ。そんなに食べたいなら、わたしの代わりに食べればいい。そう言おうとして、口を開くと、もう一口、とフォークを差し出される。喋らせるつまりもないらしい。
味わって食べてよ、などと言ってのけるヴィンチェンツォに、もごもごと口を動かしながら、絢瀬は味なんてわかるか、と心の中で吠えた。