その日は温かな冬の日だった。
日差しは穏やかで暖かく、もこもこに着ぶくれをするほど着込む必要がないけれど、身を切るように風は冷たい。二人は色違いのダウンジャケットに身を包んで、のんびりとアスファルトを歩いていた。
洗濯も済ませると、二人で室内に洗濯物を干す。ワイヤーを反対側の壁まで引っ張って固定する。ハンガーにかけた洗濯物をひっかけて、タオルはスタンドに引っ掛けていく。
将来のことも見据えて買ったマンションには、寝室とヴィンチェンツォの仕事部屋以外にも部屋が二つある。一つはゲストルームとして空けてあるが、もう一つは室内干し用の部屋として使っている。
「アヤセ、そっちは終わったかい?」
「ええ。今終わったわ」
「二人でやると早くていいね」
「本当ね。それに、これなら手伝えるもの」
絢瀬からランドリーバスケットを受け取り、ヴィンチェンツォは洗濯機の方へ持っていく。鼻歌まじりに歩いていく彼に、機嫌がいいな、と絢瀬は思う。機嫌が悪いことの方が珍しいが、悪いよりはいい方がいいので、そのまま放っておく。リビングに戻り、ソファーに腰を下ろす絢瀬。とさ、と軽い音を立てて、ソファーは彼女の体を支える。ワインレッドのソファーは、二人で選んだお気に入りだ。アイボリーのクッションを引き寄せて、テレビのリモコンを操作する。
ぱ、とついた画面に映ったのは、情報バラエティー番組だった。都内の人気エリアや、最近流行らしい(どうにも絢瀬はそういうものに興味がないので、同僚たちの話では聞き役に回ることが多い)カフェをはじめとした飲食店の紹介が流れている。この冬流行、とアナウンサーが喋っている流行らしいカレーパンの紹介を聞き流していると、ランドリーバスケットを片付けてきたヴィンチェンツォが戻ってくる。
三人掛けのソファーの上を少し移動して、彼の分の席をあけてやる。ありがとう、と言ってどっかりと腰を下ろす彼の体重で、ソファーが深く沈む。絢瀬がつけたテレビを見ながら、カレーパンかあ、とつぶやく。
「食べたい?」
「うーん、別にそうでもないかなぁ。カレーパン、おいしいけどね」
「そうね。わたし、口元に油がつくのが気になるから、そんなに好きじゃないけど、おいしいのは確かだわ」
「カレーパン食べるときだけ、アヤセ、一口がすごく小さいもんね」
あんなに小さかったら、中身まで全然たどり着かないじゃないか。
からからと笑うヴィンチェンツォに、絢瀬はぺしり、と足で軽くたたく。実際、カレーパンを食べるときの彼女の食べ方が気に入っているらしいヴィンチェンツォは、一時期彼女にやたらカレーパンを食べさせ続けていたのだ。油分がつかないように小さく食べる姿がかわいいからつい、と謝ってもなかなか許してもらえなかったのも記憶に新しい。
……閑話休題。
テレビ番組を見ながら、ヴィンチェンツォは大きく欠伸をする。
「眠たい?」
「んー……別にそこまで眠たいわけじゃないんだけどね」
「そう。なら、気分転換に散歩でもする?」
「ああ、それはいいね。今日は暖かいらしいし、絶好の散歩日和だよ」
そう言うと、ヴィンチェンツォはソファーから立ち上がる。絢瀬も立ち上がると、彼はどこまで行くか、と尋ねてくる。昼前だったのもあるが、散歩で遠くまで行くのもおかしな話だと思った絢瀬は、公園まででいい、と言う。近所だからと色つきのリップクリームを塗った彼女は、さっさと玄関に向かう。さっさと行動をする彼女の後ろをゆっくりとついていくヴィンチェンツォ。財布とスマートフォンをジーンズのポケットに入れた彼は、のんびりと玄関に向かう。すでにダウンジャケットを手に取っている絢瀬に、財布はいらないのか、と尋ねる。
別に買う物もないから、と言った彼女にならいいけど、と返すヴィンチェンツォ。
玄関に鍵を掛けて、二人はエレベーターホールに向かう。買い物に向かうところだったらしい隣の家族に会釈をして、道を譲る。まだ幼稚園に上がったばかりの子どもと両親だ。彼らも二人に会釈をすると、子どもの手をつないでエレベーターホールに向かっていく。楽しげな子どもの声が共有の廊下に響く。先に来たエレベーターに乗って降りていった彼らを見送りながら、二人は少し遅れて降りてきたエレベーターに乗り込む。
「子ども、かわいいわね」
「欲しくなっちゃった?」
「まだいいわ。今はあなたと二人でいい」
「嬉しいことを言ってくれるね。私も、まだアヤセと二人で良いかな」
そう笑った彼は、エレベーターの開ボタンを押して、絢瀬に先に降りるように促す。二人がエントランスをくぐる頃には、先に降りたらしい家族連れが車を車道に出すところだった。どんどん小さくなる車を見送り、二人はのんびりと公園に続く道を歩いて行く。
アスファルトで舗装された歩道の両脇には、街路樹が植わっている。冬も深い季節だ。常緑樹には葉の一枚もついてはおらず、寒々しい様子を見せていた。
住宅街をのんびり歩いて行く。時折、おでかけをするらしい家族連れだったり、今日も仕事だったりするらしい車が車道を走っていく。賑やかに走って行くそれらが過ぎ去ると、すぐに辺りは静まりかえる。暖かいとは言え、冬の昼間だ。スーパーのある方向とは逆に歩いているのだから、あまり人の気配を感じなくても仕方がないのかも知れない。道中のコンビニエンスストアで何人かの若者がたまっている。若い女性たちだった。なにやらきゃっきゃと楽しげな様子で、時折キャラクターの名前らしい言葉が聞こえてくる。どうやら、ソーシャルゲームのキャラクター商品を買って、その中身を見せ合っているらしい。
「元気な事ね」
「いいじゃないか。ああ、そういえば最近流行ってる女性向けゲームで、コンビニ限定商品があるって言っていたな……」
「ふうん? あなたもそういう物に興味があるの?」
「ソーシャルゲームはさっぱりだね。やるなら大きい画面でゲームはしたいかな」
「そういうものなの」
「そういうものだよ」
やらないから分からないわね、と言った彼女に、今度一緒にやるか、と尋ねるヴィンチェンツォ。見ているだけでも楽しいから、とすげなく断る彼女に肩をすくめる。
一緒にやったらもっと楽しいのに、と言っているヴィンチェンツォはともかくとして、二人は公園にたどり着く。定期的に清掃されている公園は、ゴミ一つ落ちていないが、遊具のほとんどが撤去されていてなんだか殺風景である。
「遊具がないとさみしいね」
「怪我をするから撤去しているらしいけれど、ベンチだけっていうのもなんとも言えない光景よね」
「怪我をするからこそ、学ぶこともあるだろうにねえ」
「そうね。滑り台を逆走して、すっ転んで頭から落ちていくとかね」
怪我をして初めて、どうしてやったらいけないのかを学ぶことだってあるもの。
そう言った絢瀬は、懐かしいものを見るように、砂場を見ている。おそらく、かつてはそこに設置してあっただろう滑り台のことを考えているのかも知れない。
「アヤセも滑り台を逆走したのかい?」
「ふふ、どうかしらね」
「教えてくれたって良いじゃないか」
「内緒、よ」
「ちぇ。じゃあ、あとでハヅキにメッセージ送って確認しよ」
「あ、それはずるいわよ」
「じゃあ、教えてよ」
「やだ」
「じゃあ、聞くしかないじゃないか」
絢瀬は自分の姉の名前が出てきて、少し驚きつつも、好きにしたら、と返す。別に聞かれても、困ることでもないのだ。実際、絢瀬は逆走をしたことがないのだから。したのは、四つ上の姉と、六つ下の妹だ。ぎゃあぎゃあ泣きわめく彼女たちを見て、逆走しないと心に誓ったのは幼い日のことだ。
……閑話休題。
のんびりと公園をぐるりと歩く。昼前の冬の公園には人の気配がない。しん、と静まりかえった公園をぐるりと歩いて、入ってきた入り口に戻ってくる。たいして時間は経っていなかったが、歩いたからか、身体はぽかぽかとあたたかい。
「そういえば、この公園はじめてきたかもしれないわね」
「そういえばそうだね。普段、こうして歩くことってあまりないからね」
「たまには散歩も良いわね……でも、やっぱりちょっと寒いわね」
「冬だからね。寒くないと」
帰るかい、とヴィンチェンツォは尋ねる。頷いて、絢瀬は自分のジャケットのポケットに入れていた手を外に出すと、すっとヴィンチェンツォのポケットに突っ込む。
すこしだけ驚いた彼だったが、すぐにポケットに入り込んだほっそりした手をつかむ。にこにこと満面の喜悦の色を浮かべている彼に、浮かれていると転ぶわよ、と絢瀬は忠告する。
「大丈夫だよ。……っと、」
「ほら、言わんこっちゃないわ」
「今のはたまたまだよ」
蓋のない側溝に足を入れかけたヴィンチェンツォを笑いながら、絢瀬は歩道を歩いて行く。
途中で若い女性たちがはしゃいでいたコンビニまで戻ると、彼が少し寄ってもいいかい、と尋ねてくる。理由を聞けば、先日発売したコンビニスイーツを買いたいらしい。そういえば、財布を取ってきていたな、と思い出した彼女は、待っているから買ってきたら良い、と言う。
「外、寒くないかい?」
「平気よ。ほら、待ってるから行ってきなさい。そんなに不安なら、早く買ってきて、すぐに戻ってきなさいよ」
「わかったよ。ここで待っててね」
そういうと、ヴィンチェンツォはコンビニの自動ドアをくぐる。そそ、と一直線にスイーツコーナーに向かっていった彼から視線を逸らす。車止めのポールにリードでつながれた犬と目があう。
犬種までは分からないが、かわいらしい茶色の小型犬だ。短い毛を冷たい風に揺らしている。甘えるような声に、彼女はそっとしゃがみこむ。
「あなた、かわいいわね」
「わふっ」
「こら、そんなところなめたっておいしくないわよ」
ロングスカートをふんふん、と嗅いでいる犬を手で追いやろうとすると、構ってもらえたと思った犬がぺろぺろとなめ始める。どうやら、飼い主たちに愛されて育てられているらしい。初対面にもかかわらず、絢瀬に腹を見せている。
さすがの絢瀬も撫でていいのか判断に困ったものの、そっと指先で顎の方を撫でる。見た目よりもふわふわな毛がくすぐったくて、おお、と感嘆の声を上げる。人差し指だけだったのを、指先全体、手のひらでそっと撫でてやる。犬はそれを気持ちよさそうに受け止めている。
わしゃわしゃと撫でていると、自動ドアが開く。自動ドアから少し離れたポールで犬を構っているから、邪魔にはならないだろうと絢瀬が思っていると、ぱしゃり、とカメラのシャッター音がする。
さすがに見知らぬ人物に写真を撮られていい気はしない。絢瀬が抗議をしようと思って顔をあげると、そこにいたのはヴィンチェンツォだった。左の肘に小さいビニール袋がぶら下がっている。白い袋なので見えないが、おそらく中に新作スイーツが入っているのだろう。
「どうしたのよ」
「いや、ね。アヤセと子犬の組み合わせってかわいいからさ」
「だからって、何も撮ることないじゃない」
「嫌だった?」
「……別に」
「ならいいじゃないか」
ふふふ、と大きく数回頷いて鼻歌を歌う彼に、絢瀬は呆れた、と微笑む。
彼女の隣にしゃがみこんだヴィンチェンツォは、起き上がった子犬を見る。子犬はきゃんきゃんと吠えている。それは先ほどまで絢瀬に吠えていたような甘えた声ではなく、警戒するような声だった。
首を左右に振ったヴィンチェンツォは、よいしょと立ち上がる。犬の顎先を一つ撫でてやってから、絢瀬も立ち上がる。ばいばいと手を振ってやれば、犬はひゃん、と一つ吠えて尻尾を振る。
「アヤセばっかりずるいなあ」
「フラれたわね、見事に」
「おかしいな、ルカには懐かれてるんだけどな」
「ルカはずっと飼ってるから、あなたに慣れているだけじゃないかしら。それにあなた、大きいからびっくりしたんじゃないかしら」
「そんなもんかなあ……」
はぁー、と一つ大きなため息をついたヴィンチェンツォに、ルカといえば、と絢瀬は言う。
イタリアにある彼の実家で飼われているゴールデンレトリバー・ルカの名前が出たから、絢瀬は彼は元気にしているのか尋ねる。最後にあったのは数年前で、その時は元気にしていたが、そのときですら老犬に片足を入れていた記憶がある。
「元気にしているよ。写真、レオから送られてきてるんだけど、見るかい」
「見たいわ。というか、送られてるなら見せてよ」
「アヤセ、犬より猫の方が好きだから、別にいいかなあって」
「猫より鳥の方が好きよ。でも、恋人が飼ってるものは何よりも好きだわ」
アヤセは本当に私を喜ばせる天才だね。
喜色満面という言葉が、これほどまでに似合う顔もないだろう。にこにこしながらヴィンチェンツォはスマートフォンに写真を表示させる。
そこに映っていたのは、イタリアングレーの体毛を持つスピノーネ・イタリアーノだった。フリスビーを咥えている犬の向こうに、黄金の毛の犬が見える。目をつぶって眠っている犬こそがルカだ。
「あら、バルドも元気そうね」
「元気すぎて、散歩のときは自分からリードを持ってくるんだってさ」
「いいことね。ルカは寝ているようだけど……」
「もうおばあちゃんだからね。最近は散歩の時と、食事の時以外はほとんど寝てるらしいよ」
亡くなる前に一度会いたいんだけどなあ。
そう話した彼の背中は少し丸まっていて、どことなく寂しそうだ。
気軽に会えない距離も大変ね。そう絢瀬が言うと、寂しいから慰めてくれるかい、と彼は尋ねてくる。
「本当に寂しいならいいわよ」
「本当に寂しいんだよ?」
「仕方ないわね。家に帰ったらハグして、キスまでつけてあげるわ」
「最高だね。その言葉を聞いただけで、元気になれちゃうね」
「あら、元気になったのなら、いらないかしら」
「必要だね!」
愛は水溶性のビタミンみたいなものだからね。
そう高らかに笑う彼に、絢瀬は仕方ないわね、とつられるように笑った。