絢瀬は珍しいものを見た、と思った。
朝食の支度のため、絢瀬より早く起きるヴィンチェンツォがまだ寝ていたのだ。額から垂れた、濃いめに煮出した紅茶のような色合いの豊かな髪が、彼の彫りの深い顔を少し隠している。
そ、と髪をかきあげてやり、形のいい額を露出させる。指先か爪先でも触れたのか、ヴィンチェンツォは少しくすぐったそうに眉をわずかにひそめるが、起きる気配はない。そんな彼の額に触れるか触れないか、ぎりぎりの口付けを落とす。
「珍しいわね……よほど疲れていたのかしら」
休みだろうが朝は来る。朝食にパンを食べないと元気が出ないよね、と言っている彼がいつもの時間に目覚めないのは、あまりにも珍しかった。
とはいえ、今日は日曜だ。いくらでも寝かせてやれる。それに感謝しながら、絢瀬は肩を抱いている腕からどうやって出るか思案していた。
半開きの口がもごもごと何か呟いている。小さな声で呟かれたそれは、日本語ではなさそうだった。
そんな彼の様子を可愛らしいと思いながら、絢瀬はどこまでなら彼が起きないか確かめてみたくなる。布団の中ではやることも少ないから、なおのことだ。
「……触るくらいじゃ、起きないわよね……?」
空気に独り言を溶かして、絢瀬は布団の中から腕を伸ばす。
そっと指先を伸ばして、ギリシャ彫刻のように立派な鼻先に触れる。とんとん、と軽く触れる程度ではくすぐったくもないのか、平然と眠っている。
それが少し面白くなくて、絢瀬は形のいい立派な鼻を、きゅっ、と軽くつまんでやる。さすがに少し苦しくなったのか、秀麗な眉がひそめられる。
適当なところでぱっ、と指を離そうと思った時、ちょうど目の前の男の目が開く。鮮やかで、目の醒めるようなエメラルドグリーンの瞳が現れる。
(本当、この色がなによりも似合う男ね)
指を彼の鼻から離して、その頬に触れる。まだ手入れされていない頬髭が少し伸びてきていて、違和感がある。その違和感すら楽しくて、絢瀬はさすさすと彼の頬を触っている。
ぼんやりと、まだ眠たそうだった彼の目にうっすらと理性が戻ってくる。どうやら、だいぶ覚醒してきたようだ。
「んん……チャオ……」
「チャオ、ヴィンス。珍しくねぼすけさんね」
「んー……」
「なんなら、わたしが朝ごはん、作ろうかしら」
「えー……今日ドメーニカだよ……もう一回寝てもいいんじゃないかな……」
「あら、贅沢ね。でも、わたしお腹すいたわ」
今日はフレンチトーストにするって、張り切っていたじゃない。
掛け布団を頭から被ろうとしている彼の手に、自らの手を重ねて、絢瀬は彼の鼻先にキスを落としてやる。寝起きのヴィンチェンツォはともかく、今から二度寝しようにも、もうすっかり目が覚めてしまっている彼女には難しすぎる話だった。
キスは口にしてくれよ、ともごもご言っている彼に、起きたらしてあげると返す。
抱かれていた腕が緩んだ瞬間に、するり、と猫のようにベッドから抜け出す絢瀬。ヘッドボードに置いたメガネをかけて、ベッドを見る。
腕の中に彼女の重みがないことに気がついたヴィンチェンツォは、仕方ないと言った顔でもぞもぞとベッドから降りてくる。
「あら、起きたのね。二度寝はよかったの?」
「フレンチトースト、漬け込んだままだったからね……焼いてあげないとね」
「楽しみにしてるわ」
「おいしく焼かないと怒られちゃうね、これは」
「あなたの料理がまずかったことはないから、信頼してるわ」
「それは嬉しいよ」
話しているうちに目が覚めてきたのだろう。のんびりしていた会話のテンポが、いつもの調子になる。
素足をおろしたフローリングがいやに冷たくて、いやに冷えるわね、と絢瀬はルームシューズを履きながら、不思議そうにロールカーテンをあげる。嵌め込み窓のむこうがうっすらと白んでいる。雪が積もったのだ。
寒い! と紺色のもこもこした半纏をひっかけながら、絢瀬にくっつきにきたヴィンチェンツォもまた、窓枠にくっついている白いものを見て、そりゃ冷えるよ、と文句を言う。
「あら、雪は嫌いだったの?」
「寒いのが好きじゃないよ。雪は綺麗だけど、冷たいから苦手かな」
「霜を踏むのは好きなくせに」
「あれは楽しいもの。雪は踏み固めると滑るからなあ」
ぶつぶつと文句を言うヴィンチェンツォは、絢瀬を後ろからホールドしたままベッドに戻ろうとしている。先程フレンチトーストを焼く、と言ったが、寒さから二度寝を決め込みたいのだろう。
いくら休みだからと言っても、あまり自堕落な生活をしたくない絢瀬は、ゆるくまとわりついていた腕の中からするりと抜け出す。
クローゼットからニットのセーターとウールのスカートを選んでいると、ようやく二度寝を諦めたヴィンチェンツォが、その色ならこっちの方が好きかな、と提案してくる。
「あら、二度寝はいいの?」
「意地悪だなあ。アヤセが一緒じゃないなら、寝ても寂しいだけだよ」
「ふふ、口がうまいのね」
「本心だよ。信じてくれないのかい?」
「信じて欲しかったら、そうね。朝ごはんはとびきりおいしいフレンチトーストにすることね。そうしたら、信じてあげる」
「任せてくれよ。私の得意料理なんだよ、フレンチトースト」
「あなた、前も別の料理でそれ、言ってなかった?」
「たくさんあるのさ、私の得意料理はね」
着替えている絢瀬の額にひとつキスを落とすと、ヴィンチェンツォは先日買ったノルディック柄のセーターにジーンズを履く。ささっと着替えた彼は、先に行ってるよ、とリビングダイニングに向かう。
現金ね、と思いながら絢瀬はカラータイツを履いて、スカートを合わせる。
ぺたぺたとルームシューズを鳴らして、彼女は歯磨きと洗顔をするために洗面台に向かう。しゃこしゃこと歯磨きをして、顔を洗う。お湯を出してもいいが、絢瀬は冷たい水で顔を洗うのが好きだ。冬らしい冷たさを浴びて、化粧水をつける。
顔の手入れを済ませてリビングに向かう。扉を開けると、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。バターの焦げる匂いと、甘い牛乳と卵の香り。卵液に浸した食パンを焼いているのだ。
食器棚から皿を二枚取り出す。コーヒーを入れるためのマグを用意しようとして、すでにエスプレッソマシンがカプチーノを二杯とも作り出していた。
「あら、もうここまで準備してくれたの」
「私のガッティーナはワガママだからね。すぐに飲みたくなるかなって」
「あら、もっとワガママ言おうかしら」
「君のワガママならいくらでも!」
皿を渡せば、バニラアイスを乗せたフレンチトーストが返ってくる。ずいぶん豪華ね、と言えば、アイスはドルチェのほうが良かったかと言われる。
ならドルチェにアフォガートがいいと言えば、最高だね、とニコニコ顔でヴィンチェンツォは同意する。
フレンチトーストにナイフを突き立てる。す、と切れたそれは、一晩中甘い卵液を吸っていたから、とろりと柔らかだ。
「おいしいわ」
「そうだろう? それに、できたてのフレンチトーストにバニラアイスがついているんだ。最高さ」
「そうね。たまになら悪くないわね」
熱々のフレンチトーストの熱で、うっすら溶け始めたバニラアイスを掬う。口の中が熱くて冷たい。
甘ったるいものを押し流すように、絢瀬はカプチーノに口をつける。
絢瀬が小休止を挟んでいると、ぺろりと最後の一切れを食べ終えたヴィンチェンツォが、口元についたバニラアイスを舌で舐めとっていた。
「ああ、おいしかった」
「それは良かったわね」
「アヤセ、もうお腹いっぱいなのかい?」
「ちょっとね。一切れあげる」
「もうちょっと食べなよ。君は痩せてるんだから」
「これでも、ずいぶん食べるようになったのよ?」
「そうかな……私としてはもう少し食べて欲しいけど……まあ、無理して食べるほうが嫌だしね」
絢瀬の皿から、一切れフレンチトーストを取り上げたヴィンチェンツォは、ぺろりと食べる。もぐもぐと咀嚼している彼は、嚥下するとアフォガートができるまでに食べてね、と言う。
エスプレッソマシンが、出来立てのエスプレッソを入れるまでそんなに時間はかからない。絢瀬はカプチーノを一口飲んで、最後のフレンチトーストを口にした。