金曜日の二十時半。この時間にヴィンチェンツォは風呂を出る。黄金色の蜂蜜を濃縮した髪をしっかり乾かして、ブラシで整える。整髪剤で整えていない髪はふわふわとしていて、いつ崩れるか分からないが、どうせテレビを見たら寝るだけなので気にすることはない。
髪を乾かして、リビングに向かう。この間、わずか十分程度だ。恋人の絢瀬は、いつものルームウェアを着て、ワインレッドのソファーに腰を下ろしていた。
「もうはじまった?」
「まだよ。まだ十分時間はあるわよ」
「分かっているんだけど、どうにも落ち着かないんだよ」
言葉通り、ずっとそわそわしている彼は、カレースプーンを手に冷凍庫を漁っている。
絢瀬とヴィンチェンツォの家には、ファミリーサイズの冷蔵庫のほかに、アイスクリームを保管するためだけの冷凍庫がある。それは、風呂上がりにアイスを食べるのが日課のヴィンチェンツォのためだった。
もっとも、彼は冬になると、食後にこたつでのんびりする時にも食べるので、アイスクリームの消費量が伸びるのだが。
……閑話休題。
今日もお気に入りのメーカーが出している、パイントサイズのバニラアイスを手に戻ってくる。通常スーパーに陳列されているカップのアイスより、うんと大きいパイントサイズのはずだが、規格外に大きな体のヴィンチェンツォが持つと、カップアイスのように見えるから不思議だ。
外蓋を外して、中蓋を剥がす。バニラアイスがお目見えすると、ニコニコと彼はスプーンを突き立てる。
「あら、もう食べるの」
「アイスはね、フリーザーから出してすぐに食べるのが礼儀なんだよ」
「ふうん、そうなの」
「あ、真剣に受け取ってないね?」
「だって、アイスそこまで好きじゃないもの。あら、CM入ったわね」
最近話題の新作映画のコマーシャルがはじまる。超大作アクション映画、と銘打たれたそれに、へえ、とヴィンチェンツォが反応する。
アクション映画は、たしかに彼は比較的好んでみる。そもそも、歴史や戦争もの、ロードムービー以外ならなんでも見る男だ。内容の良し悪しはともかく、興味があるものはなんでも見るところがある。
対する絢瀬はミステリー映画を好んでみる。派手な演出が多いクライム映画やアクション映画は、カメラワークによっては疲れてしまうのだ。
コマーシャルの内容から、クライム映画の要素もありながら、派手なカメラワークや戦闘シーンが多いからアクションに分類しているのだろうな、とぼんやり思っていると、隣から絢瀬も好きそうだね、と言われる。
「ええ? そうかしら。アクションが多そうで、ちょっと疲れそうだわ」
「そう? うーん、なら友達と見ようかな」
ユウダイならああいうの好きそうだしな。
無理強いをしないヴィンチェンツォに、申し訳なさ半分と、感想次第では一緒に見てもいいか、と考える絢瀬。それを告げてやれば、じゃあ二回目はアヤセと一緒だ、と喜ぶヴィンチェンツォ。そんな彼に、感想次第だから見ないかも知れないわよ、と釘を刺す。
そんなやりとりをしているうちに、テレビ画面が切り替わる。新聞のラテ欄曰く、劇場版ノーカットらしい。以前、デートで訪れた映画館で見たことがある作品だが、それなりに昔のことなので、絢瀬の記憶から抜け落ちている。逆に言えば、楽しみがあるということだが。
「どんな内容だったかしら」
「うーん……たしか、美人が出てきた記憶しかないな……」
「あなたらしいわ」
「アヤセよりも美しい人物はいないんだけど、世の中の女性って大抵美しいからなぁ」
「あ、はじまった」
画面が暗くなり、雨音がスピーカーから鳴る。どうやら、大雨の中、どこかのビルの中を探索しているようだ。なにやら、小難しそうな顔をしながらタッチパネルに向かう女性は、全身を黒のレザースーツでぴしりと決めている。
ぷしゅー、と開いた扉をくぐり、彼女が広い広場に出る。近未来的な白い空間が広がっている。どれだけ照明を炊いているのか、目がくらむほどにまぶしい。
アクションだったな、そういえば。絢瀬が内容を思い出しつつあると、アイスを掬ったスプーンを銜えたヴィンチェンツォが小声で尋ねてくる。
「電気消してもいい?」
「別にいいけど……目が悪くなりそうね」
「でも、雰囲気が出るよ?」
「まあ、たしかに。映画館みたいな雰囲気はあるわね」
「じゃあ、消してもいいかい?」
「しかたないわね」
絢瀬からの許可が出ると、ヴィンチェンツォはローテーブルの上に投げ出されていた照明のスイッチを手に取る。一つ操作するだけで、部屋の照明が落とされる。テレビの後ろに置かれた間接照明が、うっすらと光が灯される。やわらかなオレンジ色の光が、テレビのまぶしさを緩和させてくれている。
広場に出ていた女性が、中央にしつらえられた台座を遠巻きに見ている。だだっ広い部屋にぽつんと置かれたそれを不審がっている。しかし、ここでそれを手に取らないことには、物語は進まない。女性は手を伸ばして、台座にふれる。何の変哲もない、金属製の六角形の台座だ。それを注意深く、ときにはわずかに触りながらアプローチしていく。静かな、しかし焦燥感をあおり立てる音楽が心臓に悪い。
「ふふ、ドキドキするね」
「そうね。あ、」
「おっと、危ない危ない。アイスを落とすところだった」
ヴィンチェンツォの体温で、半分ほど溶けかけているアイスクリームの容器を手から滑り落としかけた彼は、水滴で濡れた手を寝間着で拭う。溶けかけのアイスクリームにスプーンを突き立てて、大きな口を開けて放り込む。つめたい、と小さくこぼす彼に、アイスは冷たくなきゃダメでしょ、と返す絢瀬。
「そうなんだけどね……よし、食べ終わった」
「え、結構量あったわよね……?」
「あれぐらい、普通サイズだよ」
日本のアイスクリームが少なすぎるんだよ。
そうぼやいた彼は、テレビ画面に目線を向ける。空のパイントサイズのアイスクリーム容器にカレースプーンを突き立てた彼は、画面に視線を向けたまま、ローテーブルの上に容器を置く。コマーシャル放送の間にシンクに置きに行くのだろう。
日本じゃ、そのサイズのアイスは家族と分けて食べるんだ、と何度も言った言葉を絢瀬はノンカフェインの紅茶とともに飲み下した。映画は、台座に仕込まれていたトラップが発動して、赤く画面が点滅していた。