title by alkalism(http://girl.fem.jp/ism/)
たまにはこういうのも悪くはない。
ヴィンチェンツォはゆったりと温泉に浸かりながらそう思った。背丈に見合った手足の長さを誇る彼は、なかなかゆっくりとその手足を伸ばして入浴ができない。
手足を伸ばして風呂に入るなど、自宅の湯船ではもちろん無理だ。かといって、入れ墨のある彼は、大浴場は入浴は断られるのが常である。
それゆえに今回も、彼自身が無用なトラブルを好まないこともあり、個室内に設置された掛け流しの内風呂を利用している。
「あー、やっぱり脚が伸ばせるのはいいね……」
マンションの風呂も嫌いじゃないけど、狭いからなぁ。
などと、縦にも横にも大きい彼が入浴すれば、大概の風呂は狭くなることを棚に上げて、ヴィンチェンツォは一人風呂を堪能している。
そもそも、彼が県内の旅館で、こうしてのびのびと風呂に入っているのには理由がある。それは、土日が休みで、そして月曜日が祝日だったからに他ならない。
基本的に暦通りの出社をしているヴィンチェンツォと絢瀬は、時折やってくる連休に、こうしてちょっとした小旅行をしている。今回は土日に一泊二日で旅館に来ていた。月曜日は、翌日からの出勤に備えての準備期間として空けている。
冷え込んできたから、温泉でゆっくりしたいね。そう話していたのは一ヶ月ほど前のことだ。ヴィンチェンツォの入れ墨のこともあり、内風呂付きの旅館を探して、ようやく今日を迎えた。
少し早い昼食なのか、少し遅い朝食なのか微妙な時間に食事を終えて、荷物の確認をして家を出た。それから車を飛ばして、それなりの時間がかかった。
温泉街に到着すると、独特の硫黄の匂いが鼻をつく。旅館の駐車場に車を滑り込ませた絢瀬は、慎重な手つきで綺麗にバックで駐車する。
「相変わらず綺麗にいれるよね」
「綺麗に入れた方が、隣の車がよほど下手じゃない限りぶつけられないもの」
「そうだね。出費も抑えられるね」
「……誰かさんは、たまに擦ってるみたいだけど」
「……ごめん」
「いいわよ。直すのは自分の財布から、ならね」
そんなことより、行きましょうよ。
少し浮かれた声色で絢瀬はせっつく。ボストンバッグを小脇に抱えて、ヴィンチェンツォは温泉そんなに楽しみだったのかと尋ねる。
「あなたと遠出することが、そもそも久しぶりじゃない」
「そうだね。最近は近くで済ませてたしね」
「だからかしら。少し、浮かれてるみたい」
「それは嬉しいよ! 絢瀬も私との旅行が楽しみだったんだからね」
いつも私ばかりが喜んでいるからね。
そう笑った彼に、ふわりと絢瀬は微笑む。旅館の玄関を潜ると、フロントスタッフの元気のいい声が出迎えてくれる。
チェックインにはまだ時間があったため、荷物だけ預けて二人は温泉街を歩く。
「温泉の匂いって、こう、独特だよね」
「苦手だったかしら」
「いや? なんていうか、ちょっとわくわくするっていうか」
「ああ、分からなくもないわね。普段来ない場所だからかしら?」
「そうかもしれないね」
のんびり歩いていると、足湯が見えてくる。タオル貸し出しのための料金を支払い、ふたりは並んで足を入れる。ちょうどいい温度で、溜まっていたらしい疲労が溶けていくようだ。
ちゃぽ、と湯が揺れる。ヴィンチェンツォが、風情があるってこういうことなんだろうなあ、と言う。
「あら、随分日本人みたいなことを言うのね」
「もうこっちに来て長いもの。感性もジャポネーゼになってくるさ」
「ふふ、日本人は、人前で手を繋ぐことすら恥ずかしがる民族よ?」
「まあ、私はイタリア人だしね?」
「感性、日本人になってないじゃない」
呆れた、と絢瀬は言いながらも笑っている。
心地よい温度の湯に疲労を流した二人は、そろそろチェックインができるのではないか、と旅館に戻ることで意見が一致する。
タオルで足を拭い、返却口にタオルを返す。ぽかぽかの足で旅館まで戻ると、ちょうど部屋の支度ができたと案内される。
宿帳に名前を書き、部屋に案内される。すでに部屋の中に預けておいた荷物は搬入されており、部屋の隅にぽつんと置かれている。
そして、絢瀬は大浴場に向かい、ヴィンチェンツォは部屋風呂に向かい、冒頭に戻る。
ほかほかの体をタオルで拭い、髪を備え付けのドライヤーで大雑把に乾かす。ほどほどに乾いた髪を手櫛で整えながら、持ち込んだ飲みかけのペットボトルに口をつけていると、絢瀬が部屋に戻ってくる。
温まって血行がよくなったのか、いつもより上気した頬の彼女は、座椅子に腰掛けているヴィンチェンツォの向かいに座る。
置かれているまんじゅうを頬張りながら、絢瀬は口を開く。
「露天風呂、行きましょうよ」
「でも、私、これがあるからなあ」
そういうと、ヴィンチェンツォは左腕を指さす。旅館で用意されている最大サイズですら、サイズの合わない浴衣を着ている彼の左腕には、大ぶりな絵柄の入れ墨が入っている。
温泉施設において、入れ墨を入れている客は入浴を断られる。だからこそ、大浴場ではなく内風呂を楽しんでいたのだ。そのことを、絢瀬が知らないはずがない。
ふ、と絢瀬は笑う。そう言われることを見越していた、そう言わんばかりだ。
そそ、とローテーブルを回り込んだ彼女は、あぐらを描いているヴィンチェンツォの膝の上に乗り、絢瀬は彼の耳にそっとささやく。
「いいこと教えてあげる」
「? なんだい?」
「ここの露天風呂、貸切にできるそうなの」
事前予約なしで、立て札かけて鍵をつけるだけ。長時間の利用はダメ、って条件はあるけれどね。
そう絢瀬が言うと、ヴィンチェンツォは目をパチパチさせる。たっぷり一分ほどかけて、彼はその言葉を理解すると、最高じゃないか、と言う。
「君は、本当に私を喜ばせる達人だね!」
「ふふ、喜んでもらえてよかったわ。ほら、他の人に取られる前に行きましょうよ」
「そうだね。早く行こう」
二人は乾いているタオルのセットを手に取ると、露天風呂に向かうために廊下に出る。
長い廊下を歩いて、大浴場の暖簾を通り過ぎる。奥に露天風呂と書かれた達筆の看板を見て、その下に使用中、とふだが掛けられているのを見る。
「あら、もう使われていたわね」
「まあ、帰るまでに入れたらいいのさ。夕飯の後、すぐにくるか、寝る前に来たら空いてるんじゃないかな」
「そうね。それに、お風呂入った直後だものね」
「そうだよ。どうせなら、食後に入ろうよ」
一日に二回も温泉に入れるだなんて、贅沢じゃないか。
そう笑ったヴィンチェンツォに、絢瀬はそれもそうね、と微笑む。
二人は廊下を引き返して、部屋に戻る。大浴場はどうだった、と彼に尋ねられて、床のタイルが素敵だったわ、と言う絢瀬。
温泉はどうだったの、と細かく尋ねれば、とても良かったわ、と返す彼女。
「ほら、つるつるでしょう?」
「ああ、本当だ」
「……ちょっと、頬にキスなんてしなくても分かるでしょう?」
「これが一番わかりやすいよ?」
「はあ……まあ、そういうことにしておいてあげる」
袖を捲って腕を触らせようとした絢瀬は、近づいてきた顔に若干呆れつつも受け入れる。乾いた唇が彼女のもちもちの頬に触れる。それが少しくすぐったい。
ご満悦のヴィンチェンツォは、にこにこしながら部屋の扉を開けて、お約束のように頭を打った。
「ふふっ」
「しゃがんでいたのに……!」
「この旅館、全体的に建物が低いもの。気をつけなくちゃ」
「あー、くっそ……」
頭をさすりながら、ヴィンチェンツォはどっかりと座椅子に腰を下ろす。まだ頭が痛いのか、少しぶすくれている。
それがかわいらしくて、絢瀬は笑いながら、しこたま打ちつけていた頭頂部に口付けを落とす。
「これで痛くなくなったかしら」
「ついでに抱きしめてくれたら、もっと痛くないなあ」
「あら、そんなこと言えるならもう平気ね」
「平気じゃないなあ」
「こら、抱き枕のサービスはしてないわよ」
膝立ちの絢瀬を引き寄せ、ヴィンチェンツォは満足そうに彼女を抱きしめる。されるがままの絢瀬は、呆れたようにため息をついて、仕方がないと言わんばかりに、彼に体を預けた。