インターフォンが鳴った。珍しい、絢瀬はそう思っていた。
オートロックのこのマンションは、外部の人間が入るためには、エントランスに設置されているインターフォンを押す必要がある。しかし、絢瀬の友人や、ヴィンチェンツォの友人は、家でホームパーティーをするタイプではない。近所のレストランやカフェで食事をしたり、映画感に行ったり……そういったちょっとした交友をするほうだ。
だからこそ、珍しいこともあるものだ、と絢瀬はインターフォンの前に立つ。名古屋に住む絢瀬の家族や、南イタリアにいるヴィンチェンツォの家族が訪れる予定もないからこそ、気になったのだ。パネルを操作すると、それは見慣れた人物の、見慣れない格好だった。絢瀬の職場の部長である六十苅健二(むそかり・けんじ)だった。
「はい」
「やあ、調月さん」
「部長!? どうしたんですか」
「いやね、今釣りから帰ってきたところなんだけれど、よかったら魚、いらないかなって」
「魚ですか……ちなみに、どのような?」
「クロダイをね、何匹か釣れたものだから」
君のところの彼氏くんなら、捌けるんじゃないかな。
そう告げた六十苅は、どうだろう、と尋ねる。絢瀬は少し迷った後に、いただきます、と返事をする。画面の向こうに見える六十苅は、喜色に満ちた笑顔だ。
「それじゃあ、持っていくよ」
「はい。お待ちしています」
インターフォン越しの会話が終わると、トイレに行っていたヴィンチェンツォが戻ってくる。インターフォンのパネルの前にいる絢瀬を不思議そうに見ながら、お客さんが来るのかい、と尋ねる。上司がおすそわけにくるのだと告げれば、何がもらえるんだろう、とヴィンチェンツォは楽しげに笑う。
「いつももらってばっかりだわ。なにかお返ししたいところね……」
「またアリンガのオリーブオイル漬けを渡そうかな? それとも、トマトソースのほうがいいかな。というか、何がもらえるんだい?」
「クロダイ、と言っていたわ。何匹か釣れたから、って」
「ワオ! オラータかあ。いいねえ、今日はアクアパッツァにしよう!」
「それで、あなたなら捌けるんじゃないか、って言っていたから……捌けそう?」
「捌いたことはないけど……他の魚と同じようにすれば、大丈夫じゃないかなあ」
やってみないと分からないよ。
笑ってそういうヴィンチェンツォに、それもそうね、と絢瀬は頷く。どうせなら、あがって貰おう、と話がまとまったところで、玄関のインターフォンがなる。確認のためにパネルを操作すると、そこにはにこにこと笑っている六十苅が立っていた。
今開けます、と言って絢瀬が玄関に向かう。当然のようにヴィンチェンツォもその後ろをついていく。玄関の扉を開けると、やあ、と六十苅が手を上げて挨拶をする。傍らに置かれている大きなクーラーボックスを叩いてから、ぱかり、とあける。そこにはびちびちとまだ生きているクロダイが三匹入っていた。
「やあ、調月さん、ヴィンスさん」
「こんにちは、部長。わ、まだ生きてる」
「チャオ、スィニョーレ・ムソカリ。おいしそうなオラータだね」
「チャオ、ヴィンスくん。そうか、そうか。クロダイはオラータって言うのか、勉強になったよ」
「ヨーロッパヘダイ、っていうらしいけど、辞書にはクロダイって書いてあったから、まあ同じようなものなんじゃない?」
大雑把にくくるヴィンチェンツォは、そのままドリップコーヒーとエスプレッソと紅茶のうちどれがいいか、と尋ねる。返すつもりがないのが見えているものだから、六十苅は頬をかきながら、紅茶が良いなあ、と返す。クーラーボックスをかかえながら、お邪魔します、と玄関をくぐる彼は、そのままヴィンチェンツォを追うようにリビングに向かう。絢瀬は玄関の扉を閉めて、しっかり施錠する。
一番最後にリビングに向かうと、カウンターキッチンをはさんでヴィンチェンツォにクロダイを渡す六十苅が見えた。
「うーん、どうしようかな。そのまま一匹、使っちゃおうかな」
「いいねえ、豪華じゃないか」
「内臓を取って、鱗をそいで……うわ!」
「ははは。まだまだ生きが良かったなあ」
びちびち!
鱗取りを突き立てようとして暴れるクロダイに、びっくりするヴィンチェンツォ。料理――というか、家事全般に対して絢瀬はあまりにも能力不足であるから、手伝うことははなからしない。彼もまた、彼女に手伝って貰おうとは考えていないだろう。
尾をがっしりと押さえつけながら、ヴィンチェンツォは頭を包丁でたたき落とす。力一杯にたたき落としたものだから、ちょっと大きな音が出たが、まあご愛敬である。
「豪快にいくねえ」
「ちょっと力、いれすぎちゃった。頭がついたままアクアパッツァにするつもりだったんだけどなあ」
「頭は頭で食べればいいんじゃないかな。かぶと煮はおいしいよ」
「かぶと煮? 食べたことないなあ。どういう料理なんだい?」
「煮汁でしっかり煮詰める料理だよ。おいしいし、今度妻からレシピをもらってこよう」
調月さんに渡しておくから、受け取ってね。
そう言うと、楽しみにしてるよ、とヴィンチェンツォはクロダイの身に鱗取りを滑らせながら言う。ざかざかと大胆に、そして丁寧にカマのつけ根や目の下、ひれの下も綺麗にする。
エラの付け根に包丁を入れて切り離し、腹を肛門まで切って、エラごと内臓を取り出す。この感触が苦手なんだよなあ、とヴィンチェンツォは嫌そうな顔をしながらも、白子が見えると嬉しそうに白子酢にしよう、と提案する。
「お、すっかりはまったね?」
「教えてもらってから大好きだよ! 胃も肝臓も、綺麗に洗ったり、血抜きをしたら湯引きするんだろう?」
「そうそう。それを出汁醤油でね、食べるのが一番おいしいつまみだよ」
「わー、食べたいな。それって、やっぱり日本酒のほうがいいかな」
「どうだろうなあ。ワインには合わないんじゃないかなあ、醤油だし」
「だよねえ」
楽しげにそんな話をしている二人に、絢瀬は盛り上がっているわね、と紅茶を人数分持ってくる。受け取った六十苅は、楽しくってねえ、と笑う。ヴィンチェンツォもまた、楽しそうだ。いろんな食べ方を教えてくれるからね、と笑っている。
「あ、そうだ。クロダイのお礼しなきゃ。トマトソースとアリンガのオリーブオイル漬け、どっちがいい?」
「アリンガ?」
「ニシンです」
「ああ、ニシンか……うーん、トマトソースもおいしかったしなあ。ニシンのオリーブオイル漬けも気になるなあ」
「どうせなら、両方どうですか? いいわよね、ヴィンス」
「もちろんさ! どっちもおいしいもの、持って行きなよ」
「いいのかい?」
「ええ、用意しますね」
「カブトニのレシピももらうんだもの。二つとも持って行ってよ」
申し訳なさそうな六十苅だったが、テキパキと瓶詰めのトマトソースとニシンのオリーブオイル漬けを用意し始めている絢瀬と、かぶとにかぶとに、と楽しそうに下処理をしているヴィンチェンツォに、まあいっか、と考えを放置する。
中骨に沿って包丁をすーっと引く。水道水をあてながら、張り付いている血の塊を指先で掃除していくヴィンチェンツォに、歯ブラシがあるとラクだよ、と六十苅は教えてやる。
「歯ブラシかあ。たしかにブラシでこすったほうが早いよね。残念だけど、ダメになった歯ブラシが今ないんだよね」
「まあ、なくても掃除はできるから、大丈夫さ」
「……よし、これでいいかな」
きれいな中身が見えてきたところで、満足げにヴィンチェンツォは六十苅に下処理が済んだクロダイをみせる。きれいにできたねえ、と六十苅は我がことのように満足げだ。
「うちの娘たち、魚の下処理したことあったかな……だいたい私か妻がやってしまっているんだよね」
「できるんじゃない? まあ、お店でしてもらったほうが楽だし、早いけど」
「そうなんだよねえ。まあ、彼氏が釣り人でもないかぎり、下処理なんてしないだろうからいいのかな」
今はネットでも下処理の方法調べられるからね。
紅茶をすすりながら、六十苅は自分の疑問に自分で答えを見つける。そんな彼に、世の中の父親って彼氏を連れてくると怒るって聞いたけど、とヴィンチェンツォは素朴な疑問をぶつけるものだから、絢瀬は飲んでいた紅茶が気道に入りかけて盛大にむせる。
げほげほとむせている絢瀬の背中を撫でながら、ヴィンチェンツォは実際どうなの、と尋ねる。
「うーん……まあ、私はよほどおかしな相手じゃない限りは、娘の意思を尊重したいかなあ。人を見る目があるかないかなんて、場数を踏まないと磨けないしね」
「なるほどなあ」
「そういや、ヴィンスくんはどうだったんだい? 調月さんの御父上に何か言われたりしたのかい?」
「なにも言われなかったような? アヤセ、なにか言われたりした?」
「わたしもなにも……まあ、ヴィンスは昔うちにホームステイしていたこともあるから、特にそういうのはなかったんじゃないかしら」
「ああ、もう認めて貰っていた、ってことかあ」
満足そうに絢瀬の推測に頷いているヴィンチェンツォ。どうせなら、娘たちの未来の恋人たちも、彼のように気の良い、心根がまっすぐな人物だといいのだけれど、と六十苅は紅茶を啜りながら思った。