これは夢だ。ヴィンチェンツォはすぐに気がついた。このマンションはペット禁止ではないが、二人はペットを飼っていないし、飼う予定もない。また、知人がペットを預けに来た覚えもないのだ。だから、これが夢だと分かった。
明晰夢というものかな。そんなことを考えながらヴィンチェンツォは、少し離れた場所にあるソファーに腰を下ろして子猫と戯れている絢瀬を見る。
可愛らしい子猫は、明るいシルバーグレーの短い体毛にブラックの縞模様が入っている。いわゆるサバトラ柄と言われる猫だ。ヘーゼルの瞳を絢瀬に向けて、にゃあにゃあと鳴いている。彼女もまた、懐かれて嫌な気持ちではないのだろう。前脚を伸ばしてくる猫にかまっている。
その様子だけを見るなら、ただの微笑ましい光景だ。ヴィンチェンツォもまた、かわいく思っている恋人が、かわいらしい生き物と戯れている様子に心をあたためていると、猫を抱き上げた絢瀬が手招きする。
大柄な体躯が驚かせてしまうのか、ことのほか小さな愛玩動物に好かれないヴィンチェンツォは、ダイニングテーブルの椅子に腰をかけたまま声をかける。
「どうしたの?」
「ヴィンスもいらっしゃいよ。かわいいわよ?」
「私が近寄ったら驚かせちゃうよ」
「そうかしら? 大丈夫よ」
ねえ、驚かないわよね。
そう猫に話しかける絢瀬。なぁお、と甘えるように鳴いた猫は、まるで彼女の言葉を理解しているようだった。
じい、とヴィンチェンツォを見つめるヘーゼルの瞳。動物って目を合わせると威嚇していると思うんだっけな、などと思いながら、彼はゆっくりと椅子から立ち上がる。
そうっとソファーに近寄り、背もたれ越しに猫を見る。絢瀬の言ったように、猫は驚いたり警戒する素振りも見せない。どうやら人に慣れているようだ。
なうなうと絢瀬の指に頭を押し付けている猫の様子は、まるで彼女に撫でろと言っているようだった。
「懐かれているね、とても」
「そうね。ねえ、ヴィンスも撫でてみる?」
「うーん、大丈夫かな。噛まれないかな」
「大丈夫よ。ふふ、意外と臆病なのね?」
「こんなに人に慣れてる猫に触るのは初めてなんだよ」
知っているでしょう。私がペットにあまり懐かれないこと。
そう自嘲しながら、ヴィンチェンツォはそっと指を伸ばして猫の頭を撫でる。耳の付け根を人差し指で撫でてやれば、気持ちがいいのか、ぴるぴると小刻みに耳を震わせる。
猫を飼っている友人は、耳の他に背中や首も毛並みに沿って撫でてやると喜ぶと言っていたか。学生時代の会話を思い出しながら、ヴィンチェンツォはふにふにと耳の付け根を撫でる。
「おとなしいね」
「だから言ったでしょう? 驚かないって」
「ふふ、本当だ。でも、どうしたんだい、猫なんて」
「……あら? この間、一緒に保護猫を引き取ったじゃない」
忘れたの?
不思議そうに小首を傾げる絢瀬に、この夢ではそういう『設定』なのか、とヴィンチェンツォは飲み込む。
ごめん、忘れてた。素直に謝りながら、絢瀬の耳たぶに唇を落とす。ちゅ、ちゅ、とリップ音を残すように口付ければ、もう、と満更でもなさそうな顔で絢瀬はそっぽを向く。
「まったく、あなたがいいって言った人が、あなたのこと忘れちゃうだなんて――困った人ね」
「ごめんよ、悪気はなかったんだ」
「……ねえヴィンス。この子の名前、そろそろつけてあげない?」
「ん? そうだね。せっかく家族になったんだから」
つけてあげないと。
そう言おうとした言葉は、ふわりと水面に浮上しようとするような感覚に消える。突然口をつぐんだヴィンチェンツォに構う様子もなく、絢瀬は猫を撫でている。
意識だけが浮いていく感覚。肉体を置いて、まるでカメラ越しに自分を見るように意識が浮いて、そして――
――そして、目が覚める。
ベッドの中、絢瀬のの身体をいつものように抱きかかえているヴィンチェンツォは、彼女と自分の間に柔らかい何かがあることに違和感を覚える。
視線を違和感の元に向けると、そこにあったのは猫を模したクッションだった。柔らかなビーズクッションのそれは、絢瀬の腕に抱かれて潰れており、さらにヴィンチェンツォの腕にも抱かれていたからか、プリントされた三角の耳がなければ、猫だと分からなかっただろう。
カバーに印刷された柄は、明るいシルバーグレーにブラックの縞模様。夢に出てきたサバトラ柄の猫と同じ色だった。
「これがあったから、夢に猫が出てきたのか……」
納得がいったヴィンチェンツォは、むんずとビーズクッションをつかむ。可愛らしいクッションを抱きかかえる恋人を可愛く思うよりも、恋人の体温を直に感じ取れない違和感のほうが強かったらしい。
安心して眠っている絢瀬には悪いけれど、と思いながら、彼女の腕から強引に猫のクッションを引っこ抜く。もにもにとしたクッションの手触りを満喫することなく、ヴィンチェンツォはクッションをぽいと放り投げる。
てん、てん、てん。床に転がったクッションのことなど見向きもせずに、彼は邪魔者がいなくなった恋人の体温を満喫しようと、思い切り彼女の体を抱きしめた。