ごろ、と三人掛けのソファーに横になったまま、ペパーは鈍く痛む腹を押さえる。月に一度きたりこなかったりするそれは、どうにも慣れない。胎からどろりと抜ける血の塊や液状のそれだったりもそうだが、やってくるたびに動くのが億劫なほどの気怠さと鈍い痛みを伴ってくるのだ。料理すら作る気が起きず、アカデミーの講義が終わるや否や訪れたアオキの部屋でこうして横たわっているのだ。
本当は、アカデミーの寮を出るときは金曜日だから、と疲れて帰ってくるアオキのために料理をしようと思っていたのだ。講義が終わり、リュックサックと仲間達を手にそらをとぶタクシーに乗り込んで、チャンプルタウンにやってくるまでは平気だったのだ。料理を作る意欲もあった。
部屋の掃除をしているときに違和感を覚え、トイレに入ってからだった。鮮血がわずかに汚した下着を洗って、身支度を整え直して、それから――中途半端だった掃除をなんとか意地で終わらせてから、全てのやる気が霧散したのだ。
勝手知ったるなんとやら、と言わんばかりに出てきた手持ちのポケモン達のなかでも、とりわけずっと一緒に生活してきたマフィティフは心配した顔をペパーに見せると、のそのそと別の部屋に行く。どこにいくのか、と目で追っていると、目の前にもっふりとした尻尾がやってくる。尻尾に驚いていると、ヨクバリスがのそのそとソファーをよじ登って、横たわっているペパーに乗り上げてくる。
「うおっ……ヨクバリスか。どうした?」
「むちゃぁー」
「ん? きのみか……ごめんな、今は料理作ってやれねーから……」
「ちゃありー!」
「わかったわかった。気持ちは嬉しいけど、あとで貰うからさ」
「むちゃ?」
元気がないならきのみを食べたら良いよ、と言わんばかりにペパーの口元にオボンの実を押しつけるヨクバリス。いくらまろやかな味とはいえど、鈍い腹の痛みと食欲のなさの前にはせっかくの好意でも気持ちしか受け取れない。
気持ちだけ受け取る、と言った彼女の言葉の意味をあまり理解していないようだったヨクバリスだが、頭をひとつ撫でられると、気分良さそうに尻尾を揺らしてしっぽの中にきのみを戻す。どうやら、食べない、ということだけは伝わったようだ。そのままころんと身体を丸めたヨクバリスは、ペパーの腹の上で寝始める。どこでも寝るな……と感心しながら、六キロは不調の時に乗るとちょっときついな、と苦笑する。それでも、どかす気にならないのは温かい体温が腹の痛みを鈍くしているからか、重さで気が紛れているからか――とにかく、都合が良いからだろう。
首の後ろにクッションをあてがい、いよいよこのままここで寝てしまう準備をしていると、ラッキーのイラストが描かれた救急箱の取っ手を咥えたマフィティフが駆け足でやってくる。リククラゲがそれを見て、水切り台のうえに放置されていたグラスに水を注いで持ってきてくれる。
ラッキー印の救急箱を開けて、中身をぶちまけたマフィティフを見ながら、ペパーはアカデミーの寮に入る前から腹の痛みに呻いているとこうしてくれたな、と立派な後ろ髪を撫でてやる。その手を受け入れながら、マフィティフはお目当てのものを見つけたらしく、頭に触れていたペパーの手に長方形の箱を握らせる。重たい腕を持ち上げて箱を見れば、それは寮の自室にも用意してある、ラッキーズでよく安く売られている痛み止めだ。
ますます痛みを訴える腹を疎ましく思いながら起き上がり、痛み止めのパッケージを開ける。家主は一度も使わないのだろう、消費期限をちらりと見て、まだ大丈夫なことを確認した未開封のそれから真新しいシートを一枚取り出す。規定量の薬を口に含んで、リククラゲからグラスを受け取り、水で流し込む。本当はなにか胃にいれたほうがいいのは分かっているが、どうにもこうにも食べる気がしないのだから仕方が無い。そう言い訳しながらグラスをリククラゲに渡せば、のそのそとグラスをシンクに持っていくのが見える。手伝いが好きなのか、器用に触手を動かしてあれこれ運んでくれる気が利くいいポケモンである。
いいポケモンたちに恵まれたなあ、と思いながら、ペパーはクッションに埋まり直す。少しずつ和らいでいく痛みとともに、急速に眠気がやってくる。副作用にしたって早いな、と思いながらふわ、と大きく欠伸をひとつして長いまつげを重ね合わせるように目を閉じた。起きたらマフィティフがどこから救急箱の中身を戻して、あった場所に片付けないと、と思いながら。
◇◆◇
アオキがノー残業デーではないのに珍しく定時退社を決めることが出来たのは、偶然と偶然が重なってのことだった。
どうせなら、と惣菜を土産がてらにいくつか買って帰宅する。金曜日から二泊三日していく、アカデミーに通っている恋人の手料理はあるが、料理が好きだと言っているが、いつも作らせてばかりでは申し訳ない。たまには楽をさせよう、とスマホロトムで惣菜を買った旨をメッセージで送信するが、返信が一向に来ない。いつもであれば、スマホ世代でもある彼女の返信速度はそれなりに早いのだけれども。
充電が切れたのだろうか。スマホロトムはロトムの電気で動いているのだから充電切れはまず考えられない。そうなれば電源を落としているのか、彼女がメッセージを見られない状態であるかのどちらかだろう。なにかあったのだろうか、と心配から足早に自宅に向かう。玄関ドアの施錠をはずしてドアをあければ、そこには普段の彼女が履いている靴が綺麗に置いてある。
家に居ることに安心したアオキは静かにドアを閉めて、施錠する。ビジネスバックの中にキーケースを仕舞っていると、のそのそとマフィティフが帰っていたのか、と言わんばかりにやってくる。ばう、と小さく吠えたおやぶんポケモンはリビングに向かって戻っていく。ついてこい、と言わんばかりの態度のそれを不思議に思いつつ、コートハンガーにコートをひっかけ、スーツから着替えるために自室にまず向かう。くたびれたスーツからくたびれたスウェットに着替えたアオキは買ってきた惣菜を抱えてリビングに向かう。
リビングダイニングでまず目についたのは、ソファーで眠っているペパーとヨクバリス、横倒しになっている黄色いリュックサック、散乱しているモンスターボールだった。その次に目について、より悲惨だったのは、アオキ自身すっかり存在を忘れていた救急箱だった。中身を盛大にぶちまけられたそれを見ているマフィティフは、アオキに気がつくと、つい、と顔を背ける。しかたなかったんだよ、と言わんばかりの雰囲気を出しながら、だ。
ダイニングテーブルに惣菜を置いたアオキは、ソファーで眠っているペパーの顔色は少し青ざめているようにも見えて心配になる。どこか、体調が優れないのではないかと。無理をしてまでこの部屋にくる必要はないのだから、と思いながら、アオキは顔にかかっている髪をかきあげてやる。それとなく頬を撫でてやればしかめられていた眉がゆるゆるとほどけていく。
「わふ……」
「マフィティフさんが出したんですか?」
「くぅーん……」
「いえ、その、必要だったのなら構いませんが……」
「わふ」
「片付けますね、これ」
「ばう」
アオキが散らばった絆創膏や解熱剤、下痢止めやらを片付けていると、ひとつだけ見当たらない薬があることに気がつく。痛み止めはどこに、と思っていると、ソファーから落ちているペパーの指先にひっかかっていた。開けられたそれを救急箱に戻してそっと手を触れれば、いつもの体温より低い温度にアオキは驚いてしまう。先週は普段よりも体温が高かったように思ったが、と思いながら、救急箱を寝室のクローゼットに片付ける。
リビングに戻れば、起きたらしいペパーが身体をゆっくりと起こすところだった。まだぼんやりとしている彼女を助け起こして、ソファーのアームレストにもたせかけてやると、はふ、とあくびをしている。起き上がった彼女の太ももの上を陣取るヨクバリスの寝姿に、少しだけうらやましさすら覚えながら、アオキは声を掛ける。
「大丈夫……ではないです、よね」
「え? ああ……あー……救急箱……」
「あれでしたら片付けました。痛み止めを飲んでいたようですが、どこか痛みますか? 無理をしてはいけません。今日は夕飯に惣菜を買ってきたんで、それでもいいですか?」
「ん……腹がちょっと……って、夕飯! 作ろうと思ってたのに……惣菜買ってきてくれたのか、ありがとな」
「いつも作って下さっているので……」
立ち上がったアオキが、がさがさと買ってきた惣菜をテーブルに並べている音を聞きながら、買いすぎちゃんだろ、と力なくペパーは笑う。そうですかね、と言いながら、パンと米ならどちらが食べられそうですか、と尋ねるアオキに、パン、とペパーは答える。
「バゲットぐらいしかなかったよな? 今日買ってきてないから……パンプディングにするか」
「パンプディング?」
「一口サイズに切ったパンで作るフレンチトーストみたいなやつだよ。食ったことない?」
「ありませんね……話を聞く限り、それはフレンチトーストなのでは……?」
「フレンチトーストは切ってないパンだろ? 切ってあるパンを使うとパンプディングになるらしいぜ」
分類はそうなんだって、と言った彼女は立ち上がる。先ほどよりは受け答えもはっきりしている様子に、ほっとしながらアオキは無理は良くないですよ、と釘を刺すのも忘れない。心配ちゃんだな、と彼女が笑えば、心配しますよ、とアオキは返す。
「メッセージの返信がなかった、というのもありますが、痛み止めを飲むほどどこかが痛むのでしょう?」
「メッセージ……? わっ、本当だ。ごめん、気がつかなかった! 痛むって言ったって、腹がちょっと痛むだけだし、これはいつものことだしな」
「いつもの……?」
「あ、いや、その……」
「言いにくいことでしたら、無理に言わんでもかまわんですよ」
「あー……その……生理がきてて、その」
ちょっと寝てただけ、目を逸らしながら返したペパーに、アオキは月のものは大変なのだ、と何かの折に聞いた言葉を思い出す。腹を温めている女性職員を時折見かけたような気がするのを思い出して、この家に湯たんぽなんてあっただろうかと考え始める。
あれこれ考え始めると全く動かなくなるところのある恋人に対して、おーい、とペパーは声を掛けてみる。どうやら、よほど深く考え込んでいるのか、彼女の声も聞こえていないらしい彼に、だめだこりゃ、とペパーはマフィティフに合いの手を求める。。マフィティフのほうもそう思ったのか、首を横に振ってふん、と呆れた様子だった。
「アオキさんは放っといて、飯にするかあ。卵液に浸してる間に、みんなの飯も用意してやるからな」
今日はフードで我慢してくれよ、と付け加えればマフィティフがふくらはぎにすり寄ってくる。そんな日もあるよね、と言わんばかりだった。