付箋がたくさんついたガイドブック片手に、ペパーは空港のターンテーブルで預けた荷物を待つ。聞き慣れない言語を聞きながらも、パルデア語のアナウンスを頼りにターンテーブルまで来たのだ。
手洗いに向かったアオキの分の大きなキャリーケースと、自身のいつも使っているライトイエローの大きなアウトドアリュックサックをターンテーブルから取り上げる。
邪魔にならないようにターンテーブルから少し離れた場所でペパーが一息ついていると、ちらちらと視線を感じる。ペパーの顔立ちの良さを眺めている視線がほとんどなのだが、本人は特に顔立ちを気にしたことがない(アオキから「好みの顔です」と言われることがあるために、彼の好みで良かったと思うのが精々だ)ために感じる視線にむずむずとするばかりだ。
ベンチに座ってペパーが待っていると、手洗いから戻ってきたアオキがやってくる。
「お待たせしました。……ああ、荷物持っていてくれたんですね、ありがとうございます。助かりました」
「いいってことよ! それで、ここからどうするんだ? もう直接アオキさんのその……実家に行くのか?」
「そうですね。……気は乗りませんが……行きましょう」
「えー、っと。クチバシティから……えーと、こういうルートでヤマブキシティに行けばいいのか」
「……ペパーさん。道中のトレーナーとは目を合わせないことをお勧めします」
「え? なんでだ?」
「勝負を仕掛けられます。パルデア以外ではよくあることなのですが、ペパーさんは勝負は好きではないですし、自分も立場上野良トレーナーとの勝負は推奨されていませんので……」
「そ、そうなのか……気をつける」
アオキから告げられた内容にギョッとしながら、ペパーはおずおずと頷く。パルデアでは勝負をするか尋ねてから、が主流であるからどうにも――ネモのような血気盛んなトレーナーが揃ってるな、というのがペパーの感想だ。
アオキのポケモンで「そらをとぶ」を使えばなんてことはない距離なのだが、今回は大きめのキャリーケースを抱えているのもあり、徒歩での移動を選んだ。なるべくポケモンたちの疲労を減らしたい、というのが二人の意見だ。
がらがらとキャリーケースを引きながら、アオキは空港を後にする。ペパーもそれに続く。パルデア地方では見かけない、珍しい風景にキョロキョロとしている。
空港のタクシー(空を飛ばないタクシーである)乗り場の端で、空車のタクシーを捕まえる。運転手にヤマブキシティの住宅街、その一角にある地名をアオキは告る。トランクにスーツケースとリュックサックを詰め込み、エンジンをふかせて走り出したタクシーの中、運転手が大荷物ですね、と話しかけてくる。
「ええ、まあ。久しぶりの帰省なものですから」
「そうなんですね! それじゃあ、荷物はたくさんになりますよね」
「ええ、まあ」
楽しげに車を走らせる運転手に、ペパーはアオキを小突いてなんで話してるんだ、と尋ねる。荷物が多いですね、と端的に間違ってはいない翻訳をするアオキ。帰省だから荷物が多いのだと答えた、と続ければ、ペパーは手元のスマホロトムで発音を確かめている。
「カントー方面の言葉、難しいな」
「そうでしょうか」
「アオキさん、あちこちの言葉喋れるから凄いよなあ」
「以前は貿易商でしたから、言語の習得は必須でしたからね」
君も必要に迫られたら理解できますよ。
そう話すアオキとペパーのやりとりを小耳に挟みながら、何も話さずに静かに車をヤマブキシティ方面へと走らせている。
向かうはアオキの実家である。
◇◆◇
男は休みを潰すように屋根裏の倉庫にいた。四つん這いになり、一冊一冊本の背表紙を見てはこれではないなあ、と戻していく。
男・オウミは屋根裏の倉庫で探しているのは、二冊あった。一冊は辞書、もう一冊は教本だった。どちらも大学自体に単位を取得するために選択した、パルデア語の本だった。
なぜ今その本が必要なのか、と尋ねられると、ガラル地方に本社のある貿易商社から、パルデア地方――それもポケモンリーグに転職した弟が、現地で同棲を始めた嫁を連れてくるからだ。
なにかと優秀で、能あるピジョット爪を隠そうとする彼が、家内が挨拶をしたいと――すこぶる嫌々そうな声で伝えてきたときには、家族全員が結婚したなら早く連絡しろ、と突っ込んだ次第だ。聞けば三年前に籍を入れていた。なんでや、と全員でつっこんだほどだ。
そんな弟が数年振り(少なくとも四年は顔を見ていない)に実家に戻ってくるのである。弟だけなら会話に困らないだろうが、連れがいるとなると話は別である。
言語が違えば大変だ。スマホロトムの翻訳アプリを使えばいいというのはあるが、どうせなら直接やりとりができたほうがよほどいい。弟や機械を通じてでは、正確な弟の今はもちろん、彼の嫁のこともわからないからだ。
そんなことを考えながら、じっとりと汗ばむほどには暑い屋根裏を散策すること一時間。やっとのことで埃をかぶった目的の本を見つけて倉庫を後にする。
「あった?」
「あったあった。まさか役に立つ日がくるとはなあ」
「オウミ兄さんが受けててよかったよね。あたし、イッシュ語だからなあ」
「イッシュ語も話せる子だったら、役に立つかもしれないだろ」
「そうかな。一応あたしも探してくるかな」
女・アオミはそう話ながらも、実際に探すつもりはないらしい。麦茶の入ったグラスをオウミに渡しながら、布団の打ち直しは終わったよ、と話す。帰省を告げられた時に、大慌てで連絡をしたのすら懐かしい。
「相手さん、ベッドの文化だろ? 布団で寝られるかな……」
「そこだよねえ。多分大丈夫じゃない……?」
「大丈夫だといいな……」
まだ見ぬ弟の嫁を想像しながら話していると、外にいる老ガーディの吠える声が聞こえてくる。どうやら、朝から外出していた息子が帰ってきたらしい。
「ただいま! アオキのおじさん、いつ帰ってくるんだっけ」
「まだ先だよ。一週間くらいあるなあ」
「まだかなー。楽しみなんだよな」
「そんなに楽しみなのか?」
「だって、おじさん、いつもおいしいお土産持ってきてくれるじゃん」
「そっちか……」
最後に会ったのが小学校に上がるか上がらないかくらいの年だった息子からすれば、ごくたまに帰ってくる程度の男などそんなものだろう。そう思いつつ、オウミは宿題やれよ、と声をかける。はーい、と適当な返事を残して階段を上がっていく甥っ子の背に、アオミは掃除もしなよ、と声をかける。
その言葉は聞こえなかったのか、返事は聞こえてこない。二人揃って苦笑しながら、二件先のハシモトさんの家に行ったまま帰ってこない母は何をしているのやら、と話し始める。見に行くほどではないし、このまま新しいタオルケット買いに行くか、と言う話になる。まだまだ夏真っ盛り。薄手の掛け布団よりも大判のタオルケットのほうがいいだろう。
「結局、アオキは写真も寄越してこない?」
「写真くらい事前にくれ、って言ってるんだが、既読無視されてるな……」
「あらら。あの子らしいっちゃそうだけど」
アオミは困ったように笑いながら、どんな子なのかしらね、と麦茶を啜る。本当に、とオウミも肩をすくめる。
「なんも情報がないもんな。布団を一組準備しておいてくれ、だけときた。せめて写真の一枚でもくれればな」
「そうでなくても、どういう食べ物が好きとか、アレルギーがあるとか教えてくれてもいいのに」
「それについて話してこないし、多分なにもないんだろうな……多分」
「まあ、あれば話してくるわよね……」
連絡してみる、とオウミはメッセージアプリでアオキに連絡をする。アレルギーの類はないか、というメッセージに返信どころか既読すらつかないが、おそらく時差のせいだろう。
オウミが麦茶のおかわりをグラスに注ぎながら、タオルケット買ってくる、と出かける準備を始めるアオミ。行ってらっしゃい、と声をかけてから、オウミはテレビをつける。写された情報番組は、タマムシシティの美味しいスイーツ店を紹介していた。
◇◆◇
「それでねえ、アオキったら、連れてくるしか言わないの」
「あらやだ。じゃあトモミさん、アオキちゃんの連れてくる奥さんのことなにも知らされてないの?」
「そうなの! どんな外見なのかとか、なにが好きとか、なーんにも!」
いやねえ、秘密主義になっちゃって。
トモミはハシモトと嫌だわ嫌だわ、と話している。言葉の割に本気で嫌がっている口調ではないのは、一番結婚とは縁遠さがあった次男坊が結婚したからだろう。
まだ結婚していない長女のアオミ、結婚をして家を継いだ長男オウミ、結婚して家を出て行った次女のセイウはなんだかんだ相手とは長続きしているのをトモミは知っていたが、次男のアオキは長続きはあまりしなかった。最終的に愛してるのか分からない、と言われて別れた、と申告されたものだ。
そんな次男坊がいい相手を見つけてきたのだから、トモミはその日の晩に赤飯を炊き、刺身を買い、フライドチキンも用意した。なんならケーキも買った。家族で本人不在のお祝い(三年越し)をして、翌日には両隣の奥様方の耳に入れたほどには浮かれていた。
……もっとも、それを恐れてアオキは外見情報を一才母親に伝えなかったのだが、それが裏目に出ている。
「どんな子かしら。パルデアの子って会ったことがないから、分からないわ」
「やだ、わたしだってないわよ」
「やだ! 私ったらパルデア語話せないわ!」
「そんなの、アオキちゃんが通訳してくれるわよ!大丈夫よ」
「そうよねえ。あの子、向こうに暮らして長いものね」
本気で慌てたような声をあげてから、トモミは落ち着く。そして、あ、と声を上げる。
「やだ、一回会ったことあったわ。パルデアの子」
「やだ! あるんじゃないの。どんな子? ていうか、いつ会ったのよ」
「もう十年以上前よ? こっちに引っ越してくる前……まだシンオウに暮らしてた時なんだけど。その時アオキが近くの研究所の子と遊んでたのよ。その子、確かパルデアの子だったわ」
「いい話じゃない。どんな子だったの?」
「おめめ大きくて、すごい綺麗な子なの! 大きくなったら美人さんになるわね、ってのがもうよくわかる子だったわ。それで、当時は今みたいにスマホロトムなんてないから、辞書片手に二人で意思疎通を取っててねえ」
「あらあら、やりとりが可愛いじゃない」
「少しこっちの言葉が話せるくらいになったら、親御さんの都合でパルデアに帰っちゃったんだけどねえ。それからも、手紙はアオキに送ってくれるくらいには懐いてたみたいで……」
「やだぁもぉ、かわいいじゃないの」
「あの子だったら知ってるから良いんだけど、あんな可愛い子、きっと向こうでいい人の一人や二人捕まえてるわよね……」
「分からないわよぉ。もしかしたら、その子かもしれないわよ」
「だといいんだけど。あ、やだ、そろそろ晩ご飯の準備しないと」
「やだ、わたしもだわ」
やだもぉ、と言いながら二人は、どこのスーパーが特売だのと話にまだ花を咲かせるのだった。