年度始めに仕事したくないね。
そう言ったヴィンチェンツォは、有給を決めていた。そんな彼を微笑ましく思いながら、絢瀬も毎年休みにしていた。誰だって働きたくないものである。
のんびりと朝ごはんを食べた二人は、それぞれ好きなことをしていた。コーヒーを啜りながら絢瀬は新聞を読んでいたし、ヴィンチェンツォは雑誌を見ていた。
食洗機が洗い終わったことを告げるアラートが聞こえると、のっそりと立ち上がったヴィンチェンツォは、洗い終えた皿を片付ける。見たい映画はあるが、封切り直後だから混むよなあ、などと考えていると、すり、と何かが近寄ってくる。
……とはいえ、この家にはヴィンチェンツォと絢瀬の二人しかいないのだが。
「アヤセ?」
「にゃーん?」
「ずいぶんとかわいらしいね?」
腕に擦り寄ってきたのは、絢瀬だった。それも、なぜか黒いもこもこした猫耳をつけていた。
散々他人にかわいい子猫なのだと言いまくっていたから、ついに猫の真似でも始めたのだろうか、と彼が考えていると、絢瀬はほっそりした指でカレンダーを指差す。
ヴィンチェンツォはカレンダーを見て気がつく。今日はエイプリルフールだ、と。
「なるほどね。今日のアヤセは、私だけのガッティーナってわけだね」
「にゃー」
「でも、アヤセとおしゃべりできたほうが、私は嬉しいかな」
「……しかたないにゃー」
ヴィンチェンツォの周りをくるくる回っていた絢瀬は、ソファーに座った彼の膝の上に座る。いつもの彼女ならしないことだ。これにはヴィンチェンツォも驚いたが、人懐っこいガッティーナだね、とご満悦だ。
「日本語って面白いよねえ。語尾ににゃー、ってつけられるんだもの」
「猫には難しいこと、分からないにゃー」
「そっかあ。猫には分からないかあ」
「分からないにゃーん。それより構うにゃー?」
「構ってあげようか、にゃー?」
膝の上に乗っている絢瀬の喉を撫でるヴィンチェンツォ。気持ちよさそうに目を閉じている彼女の姿は、まるで猫のようだ。
膝の上に乗っているのに飽きたのか、絢瀬はソファーの上に寝転がる。ヴィンチェンツォの膝の上に頭を乗せて、膝枕だ。
普段の彼女ならしない積極的な姿に、ヴィンチェンツォは内心どきどきする。たまのことだから、と積極的なのだろうが、たまのことだから嬉しさが上限値を越えそうだ。
「ヴィンス?」
「ん?」
「構わないのかにゃ?」
「んー。どう構おうか迷ってたの」
「撫でてもいいのにゃー」
「撫でるだけでいいのかい?」
私はそろそろキスがしたいなあ、と言うヴィンチェンツォに、すればいいにゃ、と返す絢瀬。
それに対して、ガッティーナじゃできないでしょ、と返されて、絢瀬はぱちぱちと瞬きをする。そして、その言葉の意味を理解する。
「……もう。せっかくエイプリルフールに乗っかったのに」
「いつものアヤセが一番好きなんだ」
「ガッティーナのわたしは?」
「うーん……かわいらしかったね!」
濁すように笑った彼に、仕方ないな、と絢瀬は微笑む。
彼女は、膝枕にしていたヴィンチェンツォの膝から体を起こすと、そっ、と彼の唇に自身の唇を重ねる。
触れるだけの軽い口付けをニ、三度すると、つけっぱなしにしていたテレビから正午のアナウンスが聞こえてくる。
「あら、もうお昼なのね」
「エイプリルフールは午前中だけだし、ちょうど良かったね」
「一日、ずっと猫のままでも、わたしはよかったのよ?」
「それじゃあ、私が寂しいじゃないか!」
好きな人がこんなに近くにいるのに、キスのひとつもできないだなんて!
大袈裟に悲しみを表現する彼に、絢瀬はくすくすと笑う。
「わかったわよ、もう」
「本当に?」
「本当だってば。なんなら、もう一回する?」
「一回とは言わず、何回でもいいんだけどな?」
「贅沢な人ね」
呆れたように笑いながら、絢瀬は体を乗り出すと、ヴィンチェンツォの唇に、可愛らしいリップ音と共に口付けを落とす。
すぐに離れていこうとする絢瀬の頭を固定すると、ヴィンチェンツォはまるで食べるように、柔らかな唇に触れる。
肉厚な舌先で、絢瀬の歯列をなぞる。少しだけ開いた隙間に舌を捻り込み、彼女の舌に触れる。
「んっ……」
絢瀬の手が、とん、とヴィンチェンツォの胸板を叩く。結構な回数を重ねても、上達しない彼女を微笑ましく思いながら、唇を離す。銀色に光る唾液が、細く橋のように二人の間にかかる。
「っ、はー……」
「びっくりしちゃった?」
「ええ……とてもね」
「ごめんね?」
「いいわよ、別に。ちょっと驚いただけだから」
「それならよかった。でも、積極的なアヤセもいいね」
でも、たまにでいいや。そう言った彼に、不満だったかと尋ねる絢瀬。
不満じゃないけど、と言うヴィンチェンツォは、なにか言い淀むようにしてから、絢瀬の耳に唇を近づける。
「あんまり積極的だと、食べたくなっちゃうから」
「……! あら、それは怖いわね。頭から食べられちゃうわ」
「好きな人には紳士的でありたいからね、私以外にも積極的になっちゃだめだよ?」
「たまには獣みたいなヴィンスも見たいわよ?」
「……そう?」
「たまには、ね」
いつも優しいだけじゃ飽きるじゃない。
そう笑った絢瀬に、なら今晩どう、と誘いをかけるヴィンチェンツォ。
その返事は可愛らしい口付けと共に帰ってきた。