うららかな春の陽気に誘われるように、ヴィンチェンツォと絢瀬は街に繰り出していた。
春めいた気温のせいか、街には人で溢れていて、まるで冬眠があけたように賑やかな空気だ。
「あったかいね。上着、やっぱりいらなかったね」
「そうね。カーディガンでも少し暑いかも」
「邪魔ならもらおうか?」
「そこまでじゃないわ、ありがとう」
絢瀬は薄手のカーディガンを着ているが、その下に着ているVネックのシャツは少し暑そうだ。スクエア・ネックのTシャツを着ているヴィンチェンツォは、すっかり夏のように半袖を選んでいて、絢瀬からすれば寒いのではないかと不安になってしまう。実際には、筋肉量もあって寒くはないのは分かっているのだが。
道ゆく人は、ヴィンチェンツォを見てすこし距離をおく。それは彼の人より頭二つ近く飛び出した背の高さもあるし、分厚い筋肉の鎧で膨らんだ体に畏怖の念を覚えてのものもあるだろう。
そこに加えて、左腕の外側全体に広がっている刺青も要因として大きいだろう。肘から下の二輪咲いた大輪のバラに、リボンを挟んで上下に飛ぶ小鳥。Tシャツの袖口から覗く一対の黒いダガーを刻んでいれば、一般的な感性を持つ人なら、少し距離をおくだろう。
ヴィンチェンツォの刺青も手伝って、二人と人混みの間には少し距離がある。ぎちぎちに詰まってなくて、息がしやすいとヴィンチェンツォが思っていると、あ、と絢瀬が声をあげる。
「どうしたの?」
「ううん、あそこのキッチンカー」
「キッチンカー? ……ああ、あれかい? あのキッチンカーがどうかしたのかい?」
「ええ。あれ、確か、叶渚(かんな)が気に入ってるお店のだったと思うの」
近くで確認してもいいか、と尋ねる絢瀬にもちろんだと頷くヴィンチェンツォ。人波をかき分け、信号を渡る。
ちょっとした休憩所として開かれているスペースに停められているキッチンカーは、華やかなペイントが施されている。近くに立てかけられている看板には、店名と出張販売、と書かれている。
その店名は、絢瀬の同僚である剣崎叶渚(つるぎざき・かんな)が最近見つけたとはしゃいでいた店だ。フレッシュなフルーツを使ったジュースがウリの店だ。
「へえ、フルーツジュースか」
「食品添加物を使ってないシロップを使っているそうよ。注文を受けてから作るから、新鮮だって言ってたわね」
「すごいね。こだわりを感じるよ。飲んでみるかい?」
「そうね。ここで見つけたのも、何かの縁だわ」
そこまで並んでいない列の最後尾に並ぶ二人。並んでいる人のほとんどが女性だったが、ヴィンチェンツォは全く気にしていない。日本人男性の大半が、女性が大半を占める空間にいると、居心地悪そうに小さくなるものだが、彼は興味があることに対しては自信たっぷりに堂々としている。今回もフルーツジュースに興味があるから、堂々と並んでいるし、なんなら絢瀬よりもそこにいるのが自然なほどだ。
並んでいる女性たちが、時折ヴィンチェンツォに視線を向ける。それは好奇からのものだが、彼が冷やかしや付き合いだから並んでいるのではなく、本当に楽しみに並んでいるのを感じ取ると、す、と外される。
列に並んでいると、店員がお待ちの間ご覧ください、とラミネートされた板を渡してくる。受け取ると、そこにはメニューが書かれている。
「わ、ミックスジュースがある。私、これにしようかな」
「あら、いいわね。わたしはどうしようかな……パイナップルもグレープフルーツもいいわね」
「いいね。それもおいしそうだ。ミックスジュースもいいけど、パイナップルもおいしそうだなあ……」
「あら、いいの? ミックスジュースじゃなくて」
「パイナップルおいしいもの。ね、アヤセはどうする? グレープフルーツにする? パイナップルにする?」
「うーん、なら、ミックスジュースにするわ」
そうしたらあなたに一口あげられるでしょう?
笑う絢瀬にヴィンチェンツォは二度ほど瞬きをして、いいのかい、と言う。いいわよ、と返す絢瀬。
「別にグレープフルーツがそこまで飲みたかったわけじゃないもの」
「君っていつもそうだよねえ。食に興味がなさすぎるのも罪だよ」
「そうかしら? あなたが楽しそうなら、わたし、それでいいのだけれど?」
「……全くもう。たまには私を喜ばせるよりも、君の好きなものを優先するべきだよ」
でも、今日はその言葉に甘えようかな。
そう笑ったヴィンチェンツォは、列の最前列に立つ。商品を受け取った一つ前の女性がキッチンカーの前から離れる。
ヴィンチェンツォと絢瀬は注文窓口に立つと、絢瀬がメニュー表を指さす。サイズはどうするか尋ねられて、絢瀬は一番小さいのを、と頼む前に、ヴィンチェンツォが口を挟む。
「ミックスはMサイズで、パイナップルはLサイズで」
「……あら、わたし、そんなに飲めるかしら」
「大丈夫さ。私が飲むから」
にこにこと笑っているヴィンチェンツォに、絢瀬はどっちも飲みたかったのね、と笑ってしまう。
意外なことにバーコード決済対応済みだったので、スマートフォンで決済する。ぴろりーん、と音がすると決済済みの画面が表示される。
ががが、とジューサーが果物を刻み、シロップと混ざり合う。ジューサーに投入されるために小さく切られた果物が、みずみずしいままに形を変えていく。プラスチックのカップに注ぎ込まれ、二をされる。太めのストローを差されたそれらは、お待たせしました、と店員から渡される。
礼を言って受け取ったヴィンチェンツォは、小さめのカップのほうを絢瀬に渡す。キッチンカーから離れながら、二人は近くのベンチが空いていないか、ぶらぶらと歩く。どこのベンチも誰かが座っていて、なかなか二人が腰を掛けられそうなベンチは見当たらない。
しかたない、とあきらめて、二人は歩きながらストローに口をつける。
「ちょっと行儀が悪いわね」
「しかたないね。座れそうな場所、なかったから」
「まあ、もうちょっとで家だもの……あ、ミックスおいしいわね」
酸味と甘さがちょうどいいわ。
そう告げた絢瀬に、私にもひとくち、とヴィンチェンツォがねだる。はい、とカップを持ち上げ、彼の口元まで持っていこうとすると、す、とカップを取り上げられる。身長差が三十センチ近くあるのだ。腕を上げるのだって楽ではないだろう、というヴィンチェンツォなりの配慮だ。
たまには道行くカップルのように飲ませ合いのようなことをしてみたいのだけれど、と思いつつも、立っているとそれも楽ではないことを、誰よりも絢瀬はよく知っていた。
「本当だ。リンゴとオレンジが強いかなって思ったけど、後ろからグレープフルーツの苦みが来て、面白いね、これ」
「そうね。いろんな味が楽しめて、なんだかお得だわ」
「パイナップルもおいしいよ」
甘みが強くて、酸味がちょっと弱いけど。
そう言いながら、ヴィンチェンツォは絢瀬の口元にストローを持っていく。勧められるがままにストローに口をつけて、ジュースを吸い上げる。彼の言うように、舌で感じる味は甘さが多くて、少し酸味が弱い気がする。ゴールデンパイナップルを使っているのかも知れない、と絢瀬は思う。以前職場で、なにかの拍子にパイナップルの種類によっては、甘さが強いものがあるという話になったのだ。
これはこれで嫌いじゃないけれど、ミックスジュースのほうがおいしく思えてしまったのは、彼女がそれほど甘い物が好きではないからかも知れない。
「悪くはないわね。でも、それならミックスのほうが好きだわ」
「そうかもね。アヤセ、あまり甘い物好きじゃないからね」
「ええ。ミックスか……グレープフルーツも飲んでみたいわね」
「グレープフルーツかー。私はやっぱり、王道にアップルかな」
今度はお店でも注文してみようよ、とヴィンチェンツォが提案する。それもいいわね、と絢瀬は店名を確認すると、スマートフォンで打ち込む。表示されたのは、家から少し遠い駅名だった。
「あら、ちょっと距離があるわね」
「本当だ。これは、デートで行くしかないね」
「あら、ちょうどいい口実ができたわね」
「よかったじゃないか。次の休みはこのお店に行こうよ」
あまり行かない場所って、行く予定を立てるだけでも楽しいよね。
そう笑うヴィンチェンツォに、絢瀬は日曜日は予定があるのよ、とだけ言う。同僚の妋崎(せざき)のはまっているオンラインゲームのコラボカフェに行く予定があるのだ。彼と一緒に行く予定だった友人に長期の出張が入ってしまったために、穴埋めとして呼び出されたのだ。ゲームそのものは詳しくないが、シリーズものをプレイしているのを見たことがある、と告げたら白羽の矢が立ったのだ。
とはいえ、最初に声がかかったのは、比較的ゲームをしている叶渚(かんな)だったのだが、彼女にはすでに予定が入っていたのだ。
……閑話休題。
それじゃあ、土曜日はあけておいてね、と告げるヴィンチェンツォ。分かってる、と絢瀬は返しながら、そうだ、と彼に尋ねる。日曜日に訪れる予定のコラボカフェのコンセプトになっているゲームについて聞いてみると、ああ、とヴィンチェンツォは口を開く。
「それ、ユウダイがやっているやつだね。誘われたんだけど、私、オンラインゲーム用のパソコン、もってないから、やってないんだよね」
「あら、そうなの。実は同僚に誘われたんだけど、なんでもランチョンマットをもらえるらしくて、欲しい人にあげようかなって思ったのよ」
「なるほどね。それならユウダイ、すごく喜びそうだ……って、日曜日の予定ってそれ?」
「ええ。なんでも、行ってくれる人がいないって……」
「……それなら、ユウダイを紹介しようか? 彼、そのゲームやっているし、どうせなら、やってる人同士で行く方が楽しいだろうし」
「……それもそうね。ちょっと連絡してみるわ」
絢瀬がスマートフォンのメッセージアプリを立ち上げて、文言を入力している間、ヴィンチェンツォはひっそりとガッツポーズをとる。友人である同僚を、恋人の同僚に紹介するだけで、恋人の日曜日の予定をこれでなくすことができるかもしれない。それだけで、ヴィンチェンツォの気持ちは晴れ渡った青空のように気持ちよくなった。