ヴィンチェンツォはご機嫌で朝を迎えた。
昨晩ベッドの中で盛り上がり、二回戦に飽き足らず、延長戦を申し込んだら許可が出たのだ。翌日が休みだからと言うのもあるが、翌日身の回り全ての世話をすべて行うと言う条件で延長戦ができたのだ。
声を咬み殺すことをさせずに、枯れた声で喘ぐ姿を思い出しながら、ヴィンチェンツォは未だ眠る絢瀬の髪を撫でる。温めた濡れタオルで体を拭ってから眠ったが、寝汗でしっとりしている髪に鼻先を埋める。いつもより少し強く香る彼女の体臭に、じわりと愛しさが募る。
何とは言わないが、ぐしゃぐしゃになったシーツを剥がして、新しいものに取り替えたから、昨晩の情事の残り香はどこにもない。それを少し勿体無いと思いながら、ヴィンチェンツォは久しぶりにめいっぱいできたなあ、と思う。
もとより、体を鍛えることが好きなヴィンチェンツォと、最低限の運動しかしない絢瀬では、基本的な体力がまず違いすぎる。故にヴィンチェンツォは大抵の夜は、どことなく物足りなさを覚えるのが常であった。翌日が仕事であれば、なおのことである。
翌日が休みだから、と痴話にふけるにしても、大抵二人はどこかに出かける約束をしている。拝み倒して延長戦に持ち込むのも、その翌日に二人でのデートや、友人とランチなどがない時に限られる。そうなると、ヴィンチェンツォの思いの丈をぶつける機会はずいぶんと限られてくる。だからこそ、たまの機会には、恋人の一日限りの従者となる条件を飲んでいくのだ。
……閑話休題。
絢瀬の艶やかな黒髪をかきあげて、露わにした額に口づけをする。形のいい額に何度となく唇を落としていると、むず痒そうに絢瀬は身をよじる。
寝起きがよく、朝は早い彼女とは言え、昨夜遅くまで体力の限界を超えた先まで連れて行かれては、翌朝はずいぶん遅くなる。眠っている彼女は気怠そうに頭をふっていたが、落ち着いて眠れるポジションからずれたのか、もどかしげに少し体を動かす。
ヴィンチェンツォはそれを見て、僅かに彼女の体を持ち上げて、首の下に腕を差し込む。いわゆる腕枕だ。負荷はかかるが、それも愛しい人物の体温を間近に感じられることとの等価交換だと思えばどうと言うことはない。
満足したのか、気に入った位置にヴィンチェンツォの腕が収まったのか、絢瀬は再び健康的な寝息をたてはじめる。
昨晩自分が持つ体力の限りに付き合わせた為に、未だに起きる気配のない彼女に申し訳なさを覚える反面、思う存分に彼女の寝顔を楽しめる現状を嬉しく思うヴィンチェンツォ。長いまつ毛が縁取る目はしっかりと閉じられ、美しい翡翠の両眼を見られないことだけが残念だ。
薄く上下する華奢な胸や肩に触れながら、ヴィンチェンツォは腹が減ってきたな、とぼんやり思う。一度空腹を覚えると、どうにもこうにもそちらに意識が行きそうになる。
しかし、今日の彼は絢瀬のためだけにいる従者だ。ここは彼女が起きるまで、隣にいるべきだろう。そう考えると、ヴィンチェンツォは絢瀬の体を優しく抱きしめる。
ふ、と何かが窓を叩く音がする。ここは七階で、誰かがノックすることはない。
もしかしたら雨だろうか。そう思って耳を澄ませると、しとしと、と、ざあざあ、の間の雨音が遮光カーテンと窓ガラス越しに静かに聞こえてくる。思えば、もう六月の足音が間近に聞こえているのだから、雨はよく降る季節とも言える。
ヴィンチェンツォは梅雨の季節がそこまで好きではない。二人でどこかへ出かけるにしても、雨で片手は使えなくて、外で手を握れば、雨粒で絢瀬の手が濡れてしまうからだ。好きなものは徹底して大切に仕舞い込みたくて、それでいてアクティブに外に出かけたいヴィンチェンツォにとって、雨が多く降る梅雨の時期は、家にこもっているくらいしかできなくてつまらないのだ。
ヘッドボードに置いていたスマートフォンの充電ケーブルを外して手元に寄せれば、案の定、天気アプリは雨を知らせている。一日中雨を告げる百パーセント。夜中まで降り続くらしく、ちょっとばかりうんざりしてしまう。
スマートフォンをヘッドボードに戻していると、スマートフォンのライトがまぶた越しに入ったのか、絢瀬がむう、と呻く。
ぐ、とまぶたに力が入り、抜ける。ゆるりと現れた翡翠の両眼は、まだどこかぼんやりしている。二度、三度と瞬きをするうちに、エメラルドグリーンの美しい瞳が起き始める。
チャオ、と声を出そうとして、けほけほとむせる絢瀬。あられもない声で喘がせ続けた昨晩のことを思い出し、ヴィンチェンツォは腰が重たくなりながら、水はいるか、と尋ねる。
「ええ……もらえる?」
「もちろんだとも。今日の私は、君の召使いだからね」
「あらやだ。素敵な執事のつもりで頼んだのに」
ヴィンチェンツォの整えられる前の髭を触りながら絢瀬は笑う。少しぼさぼさの髭を触れば、彼女が起きるまで、ずっと隣にいてくれたのが分かる。それが嬉しくて、絢瀬は水のついでに朝ごはんも食べたい、と告げる。
どう運ばれたいんだい。そう尋ねられて、絢瀬は昨晩の無茶を思い出す。耳を赤くしながら、歩けるわよ、と突っぱねると、いつものようにベッドから降りて――腰が砕けたようにへたり込む。
立ち上がれない彼女に、やっぱり、と言わんばかりにヴィンチェンツォは手を差し伸べる。その手を受け取りながら、絢瀬は彼に体を預ける。
「抱っことおんぶ、どっちがいい?」
「……抱っこ」
「任せてよ」
絢瀬を抱きかかえると、ヴィンチェンツォはけろりと立ち上がる。絢瀬とてそれなりの体重はあるのだが、まるで重さなどないかのように持ち上げられてしまい、なんだか恥ずかしくなる。
羞恥で顔を赤くしながら、絢瀬は水の次はトイレ、と次の指示も出す。それをにこにこと聞きながら、ヴィンチェンツォはヴァ ベーネ、とリビングの扉を開けた。