大団円とは言いがたい、それでも決して幸せが待っていないとは限らないことを示唆する映像の後、エンドロールが流れる。ピアノの静かな音がスピーカーから聞こえてくる。
前評判は悪くない映画を、封切りした翌週に絢瀬とヴィンチェンツォは見に来ていた。それは海外の――イタリアの映画監督が手がけた映画で、ヴィンチェンツォの友人が推している監督の最新作だった。
頼むから見てくれ。この監督の、はじめての海外輸出作品なんだよ。
そう言われては、情に厚いヴィンチェンツォとしては見ない理由はなかった。絢瀬と映画館デートの約束を取りつけて、予約を入れたのはつい先日のことだった。どうせだからプレミアムシートにしたのは、ちょっとだけ見栄を張りたかったのと、カップルシートでは少し手狭な思いをしたのがあったからだ。
話はわかりやすいものだった。売れないピアニストの男が、いつものようにストリートピアノをしていたら、見目美しい女が投げ銭をいれる。それがきっかけで二人の交友がはじまるが、彼女には秘密があったのだ――ありふれた、と言われればありふれた作品テーマだが、王道と言い換えれば外れはない。はじめての国外に出す作品として、冒険しない人柄が現れていたし、静かに、穏やかに進む話は絢瀬の好みにもあっている。カメラワークが賑やかではない作品を、彼女は好んで見るからだ。
静かに進み、男は変わらず売れないままで、女は別の男と関係を持っていて――それでも、女を諦めきれない男が、告白代わりに自作の曲を演奏する。それが女にどう響いたのかは――観客のみが知る。
ともすればつまらないと言われかねない作品だったが、ヴィンチェンツォは友人一推しの監督の他の作品も知っているので、かの監督初心者にはちょうどいい作品だと感じていた。この監督は、時として自分の好きなものに極振りした作品を作るから、はじめてがそれだと、見る側がついていけなくて、困惑したまま二時間を過ごしてしまうからだ。
空になったポップコーンとコーラの容器を捨てながら、ヴィンチェンツォは絢瀬に楽しかったかい、と尋ねる。ブランケットをスタッフに返していた絢瀬は、いい作品だったわ、と返事をする。
「素敵な作品だったわ。流れる曲も雰囲気にあっていたもの。あれ、役者が弾いていたのかしら?」
「どうなんだろう。もしかしたら、雑誌にそのあたり載っているかもしれないね。マッテオに聞いてみるよ」
「あら、お勧めしてくれたのマッテオさんだったのね。彼、映画が趣味なの?」
「あいつ、映画大好きだよ。なんでも見るやつでさ、彼女とのはじめてのデートで、どうしても見たいからってスプラッタ選びやがってさあ」
「あら……それはどうなったか、ちょっと目に浮かぶようだわ……」
「でしょう? でも、あいつの選ぶ作品に間違いってそんなになくてさ」
見る側の好みが分かれば、それに合った作品を教えてくれるから、重宝してるんだよ。
今ではなかなか会うことのできない、遠く海の向こうに住む友人との思い出を語るヴィンチェンツォの顔は穏やかだ。そんな彼に、いい友達じゃない、と絢瀬はいう。
シアターを抜けて、映画館のホールに向かう。次の回が始まるからだろう。人がどんどんシアターに向かっていく。邪魔にならないように通路の端に移動しながら、パンフレット買おうかな、と売店に向かう彼の後ろを絢瀬はのんびりとついていく。身体の大きなヴィンチェンツォの後ろを、つかず離れずの距離で歩いていけば、人にぶつかる危険は大きく減るのだ。もとより、日本人は他人にぶつかる前に交わす人が多いのだが。
「アヤセ、後ろにいるかい?」
「ええ、いるわよ」
「それはよかった。見えないもの、さすがに背中側は」
そう後ろを振り向いて笑った彼は、そのまま前を向いてエレベーターに乗る。一人乗りのそれは、体格のいい彼には少し狭そうで、横を向いて立っている。きっと、後ろに立っている絢瀬と話すために立っているわけではないだろう。……彼の考えからすれば、横向きに立つ理由の半分がそこに含まれていそうだけれども。
「ねえ、アヤセ。このあと、どこかでお茶でもしないかい?」
「あら、素敵な提案ね。どこか、いいお店があるのかしら」
「それを君と探そうと思っているんだけれど、どうかな?」
それとも、最初からお店を決めておいた方が良かったかな?
絢瀬がノー、と言わないことを知っていての提案だと分かり、彼女はふふ、と笑いを漏らす。漏れた笑みの理由を、ヴィンチェンツォも分かっている。
「嫌、だなんて、言ったことあったかしら」
「なかったかもしれないけれど、今回は嫌かもしれないじゃないか」
「あら、そう言って欲しいのかしら」
「ええ? 嫌だったかい?」
エレベーターを降りて、ヴィンチェンツォは絢瀬に手を差し出す。絢瀬の白い手が、彼の肉厚な手に触れると、優しく握られる。指と指を絡めて、いわゆる恋人繋ぎだ。
そのまま二人は映画館の裏手を歩く。酒を提供する店が多いが、ランチタイムにも営業をしている店もあるようで、ちらほらと看板を見かける。とはいえ、大抵の店のランチタイムは十四時までで、どこの店も夜の営業に向けての仕込みをしている。
人気のない静かな道を歩きながら、二人はこじんまりとした小さな店を見つける。どうやら、そこは個人経営の喫茶店らしい。隠れるようにその店は存在しており、小さな黒板に書かれたオープンの文字が見えなければ分からなかっただろう。
白い漆喰の壁にダークブラウンの扉。隠れ家系カフェと言うものだろう。
「よく見つけたね、アヤセ。私、すっかり見落としていたよ」
「黒板がたまたま見えただけよ。見えなかったら、ただの個人宅だと思っていたわ」
「やっているかな……定休日じゃないし、大丈夫だよね」
押し開きのドアをあけると、男性の声が出迎えてくれる。かがんで中に入ってきたヴィンチェンツォに、店主だろう男性は驚きながらも、どうぞ、とカウンター席を案内してくれる。
二人並んでカウンター席に着くと、男性はそっとメニュー表を差し出す。オススメ、と書かれているのはアールグレイだった。
「あら、喫茶店のオススメって、だいたいコーヒーなのに、ここは紅茶なんですね。珍しいですね」
「ええ。お恥ずかしいのですが、私がなにぶんコーヒーが苦手なものでして」
「いいんじゃないかな。私も外ではコーヒー飲まないもの」
「あなたはエスプレッソしか飲まないだけでしょ」
絢瀬と店主のやりとりに割り込むようにヴィンチェンツォが入ってくるものだから、店主の男性はくすくすと笑う。笑いを少し噛み殺して、ケーキセットがオススメですよ、と教えてくれる。
ケーキセットかあ、とヴィンチェンツォが勧められるままに、日替わりケーキセット、と書かれたそれを見る。アールグレイ、レモンティー、ハーブティーのほか、コーラやカルピスも対象らしい。
「ちなみに、今日のケーキはなんだい? スィニョーレ?」
「今日はチーズケーキでございます」
「チーズケーキ! いいね、私はそれにしようかな。アヤセは?」
「そうね。わたしもそれで。飲み物はレモンティーにするわ」
「映画館でもそれじゃなかった? 飽きないのかい?」
「飽きないから飲むのよ。あなたはまたコーラ?」
太るわよ。
筋肉の上に乗った脂肪を服ごと摘んだ絢瀬に、多少の糖分は頭を働かせるのに必要だからね、と返す。
「私はカルピスにするよ。好きなんだよね、あれ」
「あら、コーラでもよかったのよ?」
「んもう! 今日の君は、ちょっぴりいじわるだね!」
大袈裟に嘆いているヴィンチェンツォを後目に、絢瀬は店主に注文をする。見てもらえないことにぶすくれながら、彼はいじわる、と繰り返す。
本当にいじわるするわよと言いながら、絢瀬に睨め付けられた彼は、肩をすくめて、冗談だよという。
ヴィンチェンツォと絢瀬のやりとりを聞きながら、店主は冷蔵庫からケーキを二つ取り出すと皿に乗せていた。