緑鮮やかになりつつある五月の終わり。絢瀬はスーツのジャケットを着ながら、暑くなってきたな、と思う。
こういう時に車通勤ができたのなら、冷房の効いた車内にいられるのだけれど。そう思いつつも、会社から自宅までの距離ではガソリン代が出ないことは絢瀬も理解している。
最寄りのバス停で降りるまで、人で鮨詰め状態のバスの中で揺られながら、帰りにアイスを買おうかと考えた彼女は、バスを降りるとその足でスーパーマーケットの自動ドアを潜る。
夕飯の足りないものも、朝食の買い出しも頼まれていない。ただ嗜好品を買いに来ただけだ。
躊躇うことなく、絢瀬は深い緑色の買い物カゴを手に取ると、そのまま冷凍食品コーナーに向かう。冷凍食品の冷凍庫の横、アイスクリームコーナーが目的だ。
「何にしようかしら……」
絢瀬はアイスクリームコーナーの前に来ると、足を止めて庫内を覗く。はしたないが、帰り道に歩きながら食べるためにバータイプのアイスクリームが欲しいのと、自宅で恋人と食べるためのファミリータイプの二つが欲しいのだ。しかし、大雑把にアイスクリームが欲しい、という考えで来たために、どの味にするかまでは考えていなかった。
コンビニのように新商品のアイスクリームがたくさん陳列しているわけではなく、オーソドックスな、食にこだわりのない絢瀬も幼少期からよく食べていたものも多く並んでいるものだから、どれにするか悩む。
こういう時にヴィンチェンツォがいたのなら、おいしそうだと思ったものにすればいいよ、とアドバイスのひとつでもしたのだろうが、絢瀬はどれでもいいの感情が先に立ってしまっていて中々に難しかった。
「……ああ、ヴィンスはバニラアイスが好きだったわね」
家用のはバニラアイスでいいか。
それが決まると、絢瀬はカゴにファミリータイプのバニラアイスを入れる。昔から夏場の実家に置いてあった六本入りのアイスバーだ。
なら自分用のはバニラアイス以外がいいな、と選択肢を狭めていく。バニラアイスを選択肢から除くと、選ぶのを放棄したくなるのがだいぶマシになる。
杏仁豆腐味のような面白い味のものもあったが、彼女が最終的に選んだものはソーダ味のアイスバーだった。昔から馴染みのあるそれは、コンビニではコーンポタージュなどの奇抜な味もある。スーパーでは幸いにも見かけなかったので、ベーシックなソーダ味のアイスバーをカゴに入れる。
買うものが決まったから、レジに向かおうとする。夕飯の買い出しをしている主婦の列に混ざりながら、彼女はスマートフォンを操作する。
メッセージアプリを立ち上げ、ヴィンチェンツォの連絡先をタップする。
「アイスクリーム買ったけど、フリーザーはまだ空いていたかしら」
要件だけのメッセージを送り、スマートフォンをしまう。レジでビニール袋を追加で買って、会計を済ませる。
一枚三円とはいえ、塵も積もればなんとやら。通勤用のカバンの中にも、小さめのエコバッグを用意しておこうか。そう考えながら、ビニール袋にドライアイスを入れた袋を詰める。それが必要なほど、スーパーと家の距離が離れているわけではないが、念のためだ。
店を後にして、さてソーダ味のアイスバーを食べようと思った時、ちょうどスマートフォンが震える。ダイレクトメールの類だろうか、と思いながら画面をつければ、ヴィンチェンツォからの返信だった。
「空きはあるよ。アイスクリーム、買ってきてくれたのかい?」
「暑かったから、つい」
「それは楽しみだよ! 私も、昨日ジムの帰りに食べちゃったんだ」
可愛らしい猫のスタンプが送られてくる。バニラアイスだとメッセージを送ると、すぐさま帰ってくる。煮込み中で比較的手が空いているのか、それとも既に料理を作り終えているのか。どちらにせよ、返信が早い。
すぐに戻ってくるメッセージに苦笑しながら、絢瀬は夕飯とお風呂は沸いているのか尋ねる。お風呂はまだだけど沸かしておくよ、と返ってくる。
「今日は冷しゃぶと冷奴だよ」
「あら、素敵なメニューね」
「そうでしょう? これなら、君もたくさん食べられるかなって」
「あら、バレてたのね」
「最近、ちょっと食べる量減っているもの。夏バテかな」
「そうかもしれないわね。食欲がなくて、つい」
「急に暑くなったから、体がついてこなかったんだろうね」
「本当、昔は七月くらいになってからだったのに」
年々暑くなるし、年々早く夏がきてる気がする。
そう返信して、絢瀬はスマートフォンをしまう。ビニール袋からソーダ味のアイスバーを取り出して、パッケージを開ける。
透き通った青色の長方形のアイスバーにかじりつく。しゃり、と氷を食む。口の中にさわやかなソーダの味が広がり、一瞬遅れて口いっぱいに冷たさが広がる。しゃくしゃくと食べ進めるほどに、口の中から胃の中まで冷える感覚を覚える。
暑さでしたたる水滴で手を汚しながら、絢瀬はしゃくしゃくとソーダアイスをかじる。だいぶ日の入りの時間が遅くなり、絢瀬が帰る頃でもまだやや明るいが、周辺の家々から漏れ出る明かりが道路を照らしている。
マンションのエントランスホールに入ると同時に、最後のひとくちを口にいれる。すっかり口内は冷え切り、身体も内側から冷えていた絢瀬は、帰りにアイスクリームを買って良かったと思う。はずれだった棒をパッケージの中に入れて、汚れた手をハンカチで拭う。まだベタベタしているような気がして、自宅に帰ったら念入りに手を洗おうと心に決める。
自宅の玄関をあけて、靴を脱ぐ。鍵を掛けて、ただいま、と声をかける。廊下の向こう側から、扉越しのせいでくぐもった声が聞こえる。
まずは冷凍庫にアイスをしまってこよう。そう考えながら、絢瀬はルームシューズに履きかえた。