雨上がりで湿度も高い夕方の事だった。
耐えきれないほどではないが、ジャケットが張り付くような感覚が嫌で、絢瀬はジャケットを脱いで腕にかけていた。いくら春夏向けのスーツで軽く、通気性に優れていようとも、張り付く感覚からは逃れられない。長袖のブラウスも暑く感じてきて、許されているのだからオフィスカジュアルスタイルにしようか、と考えてしまう。そんなことを考えても、私服選びが面倒くさくて結局スーツになってしまうのだが。
べたつく不快感を少しでも払拭しようと、絢瀬は職場の近くにあるコンビニに足を向ける。自動ドアが開いた瞬間に流れ出てくる冷気に、思わずほう、と息が零れる。
軽快な有線放送を聞きながら、絢瀬はパンプスのヒールをならして冷凍庫に向かう。アイスクリームがぎっしりと詰められているそれを見ながら、どれにしようか、と悩む。新商品なのか、コンビニ限定の商品なのか分からないが、目新しいパッケージばかりで目が回りそうだ。
「いろいろあるわね……」
クッキーのアイスもおいしそうだし、ミルクセーキのアイスはヴィンチェンツォが好きそうだ。そんなことを思いながら、彼女はあるアイスを手にする。
卵黄のようにしっかりと濃い黄色と白の二色に、フレンチトーストの絵が描かれたそれは、フレンチトースト風のアイスクリームバーだった。それを手にしたのは、別に深い理由はなかった。ただ、おいしそうだな、と思っただけである。一瞬、自宅で待っている恋人が休みの前日から用意しているフレンチトーストを思い出したのは……ないとはいえない。
レジで会計を済ませて、屋外に出る。店名入りのテープを貼ってもらったパッケージを破り、木製の棒を手にアイスを銜える。茶色い部分が頭と握り手ぎりぎりの位置にあり、中央布巾は黄色いアイスクリームでできている。まるでフレンチトーストのような見た目に、最近のアイスクリームはこだわりがあるなあ、と感心する。
一口かじれば、優しい甘さが口いっぱいに広がる。卵の味がしっかりといかされた、フレンチトーストそのものが思いのほか良く再現されていて、絢瀬はその再現度に驚く。アイスクリームの中に仕込まれた、しっとりとした刻まれたパイの食感がパンの風味を醸し出している。
もう一口かじれば、メープルシロップのソースが口の中に広がる。卵と牛乳のフレンチトーストに、メープルシロップをかけたときの味が再現されていて、技術力ってすごいなあ、と素直に感心してしまう。思いがけずおいしいものに巡り会えてしまい、絢瀬はぺろりと一本食べきってしまう。木製の持ち手をパッケージの中に仕舞ってから、写真を撮っておけばよかった、と絢瀬は気がつく。とはいえ、食べてしまったものは仕方がない。中身の撮影は諦めて、外装だけ撮影する。
「これでよし、と……」
かしゃり、とパッケージを撮影した絢瀬は、それをヴィンチェンツォに送信しようとメッセージアプリを立ち上げる。慣れた手つきでヴィンチェンツォのアカウントをタップすると、気の馬でのテキストチャットのやりとりが表示される。夕飯の材料を買ってきて、という彼の頼み事に、二つ返事で返したのを最後に止まっているチャット欄に、写真をアップロードする。
フレンチトーストの味がしておいしかったわよ、とメッセージ付きで送信する。まだ既読はつかないが、おそらく夕飯を作っているからだろうと予想する。絢瀬はスマートフォンをカバンにしまう。パッケージもゴミ箱が見当たらないから、ついでにカバンの中に一緒にしまう。
今日の夕飯はなんだろうか。そんなことを考えながら、絢瀬はちょうどバスが走り去っていったバス停に向かった。
う゛ー、う゛ー、う゛ー。
スマートフォンが振動する。メッセージアプリに新規メッセージが来たことを、けなげに持ち主に知らせている。それに気がついたヴィンチェンツォは、スマートフォンを取り上げる。メッセージアプリを起動させると、新着メッセージが二件あることをつげている。送信者を見れば、恋人からだった。
にこにこと喜色満面の顔で彼は恋人のアイコンをタップする。二件の新着メッセージの内、一件は写真だった。濃厚な黄色と白の二色を配置したそれは、手書き文字系のフォントを使っているのか、親しみやすくかわいらしさもある。フレンチトーストをイメージしたアイスクリームだというのが、一目見て分かるというのも高ポイントだ。
などと、仕事柄そういう風に考えてしまう自分に苦笑してしまう。絢瀬はきっと、そんなことを――ヴィンチェンツォの仕事に役に立つかも知れないと言うことを考えて、この写真を送信したわけではないだろう。それは写真の下に表示されているメッセージからも明らかである。
「フレンチトーストの味がしておいしかったわよ」
その一言から、彼女がこれを食して、その味が気に入ったから送ってきたことが予想できる。
それにしても、彼女がアイスクリームを買い食いするのは珍しいな、とヴィンチェンツォは思う。彼女はあまりそういった行動を取らないから、よほど外が暑くて耐えきれなかったのかな、と思う。在宅勤務を選んでいる彼は、通勤時の買い食いをしないし、外の気温の変化も休日に出かける時ぐらいしか感じない。だからこそ、テレビやラジオの四季の移ろいの番組や、絢瀬の些細な行動の変化で季節の変化を楽しんでいるところはある。
夕食の準備はほとんど終わっており、もうあとは彼女の帰宅を待つだけの状態だ。今日のメニューは鶏もも肉のマスタード焼きに、キャベツと人参、玉ねぎのコンソメスープ、とサラダだ。サラダのレタスはちぎってある。あとは缶詰のコーンとシーチキンを乗せるだけでいい。鶏もも肉のマスタード焼きは、皮に焼け目がついたら、ひっくりかえしてお酒を入れて五分ほど焼くだけでいい。コンソメスープは前日の残り物を温めるだけだ。
そう考えると、時間に余裕がある。なんなら、今からコンビニに行って、アイスクリームを探しに行くぐらいの時間は余裕で捻出ができるほどだ。
「……買いに行こうかな」
アヤセがおいしいっていうアイスだもの、私も食べたいよ。
彼女と共通の話題を作りたい。その気持ちもあり、ヴィンチェンツォの行動は早かった。スマートフォンと財布をポケットにいれると、部屋の電気を消す。玄関で靴を履きながら、キーケースをとる。玄関の鍵をしめて、そのまま早足でエレベーターホールに向かう。流れるようにエレベーターのボタンを押して、一回のエントランスにつくと、足早に自動ドアをくぐる。帰宅してきた見知らぬサラリーマンが、巨体のヴィンチェンツォに驚いたように道を譲る。いつもなら、そんな様子に苦笑するほどの余裕があるが、今日はそんなことはスルーした。
「まだ、アヤセはバスに乗ってるくらいかな……?」
スマートフォンの時刻を確認しながら、ヴィンチェンツォはコンビニに向かう。このマンションから、住宅街にあるコンビニまで、のんびり歩いて五分ほどかかる。少し急ぎ足で行けば、三分ほどでつくだろう。
私もおいしいアイスクリームを食べたいんだよなあ。そう零れた言葉は、誰にも聞かれることなく蒸し暑い空気の中に溶けていった。
「ただいま」
帰宅の挨拶をして、絢瀬は玄関の扉に鍵をかける。キーケースを玄関のシューズボックスの上に置いて、絢瀬はルームシューズにはき直す。寝室でルームウェアに着替える前に、手洗いとうがいを済ませる。スーツに除菌消臭材を吹き付ける。
クローゼットにスーツをしまい、ルームウェアに着替える。ネイビーに白く小さな花柄があしらわれたそれは、絢瀬に似合うよ、とヴィンチェンツォが選んだものだ。
ぺたぺたと廊下を歩き、リビングダイニングの扉を開ける。ちょうど鶏肉を焼いているヴィンチェンツォが、チャオ、と手を振ってくれる。
「ただいま。今日は鶏肉なのね」
「鶏もも肉のマスタード焼きだよ。もう焼けるから、お皿を出してくれるかい?」
「分かったわ」
皿を取り出して、キッチンに並べる。焼き上がった肉をその上にならべる。絢瀬がそれを受け取ると、ダイニングテーブルに並べる。電子レンジがちん、と鳴る。スープマグを電子レンジから取り出したヴィンチェンツォは、それをダイニングテーブルに並べながら、サラダのドレッシングを取り出して欲しいという。
大皿のサラダをテーブルの中央において、ドレッシングと取り皿を用意する。
二人は向かい合わせに座り、手を合わせて食前の挨拶をする。サラダを取り分けながら、ヴィンチェンツォは口を開く。
「そうだ。さっきね、アヤセが送ってくれた写真のアイス、買いに行ったんだよ」
「あら、そうなの。買えたのかしら?」
「それがさあ、売ってなかったんだよねえ。あそこのコンビニ」
「あら……それは残念ね」
「あんなにおいしそうなアイスだから、食べたかったのに!」
どこで売っていたんだい、と尋ねる彼に、職場近くのコンビニだと返す。コンビニが違うのかなあ、とぼやく彼に、そういえば職場の近くはファミマだという絢瀬。
「あそこ、ローソンだからなかったのかな?」
「そうかもしれないわね。限定のアイスなのかしらね?」
「まあ、今度ファミマに行ったときに買おうかな」
「ふふ、おいしかったから食べて欲しいわ」
「君がそこまで言うなんて、相当おいしかったんだね」
とても気になるから、明日にでも買いに行こうかな。
そんなことを言っている彼に、どれだけ食べたいのよ、と笑う絢瀬。くすくす笑っている彼女に、君が食べたものは全部食べたいんだよ、と答えるヴィンチェンツォ。
しれっと告げる彼に、絢瀬はぽかんとして、それから重たい愛ね、と苦笑する。
「重たい男は嫌いかい?」
「あなたなら嫌いじゃないわよ」
「ふふ、それはよかったよ。だって、君が食べたもの、全部知りたいし、全部共有したいじゃないか」
「そんなものかしら?」
「そんなものだよ。君はないの? 私が食べたものとか、そういうの全部知りたいとか」
少し寂しげに眉をハの字にしたヴィンチェンツォに、絢瀬は知りたいけど、言えないことだってあるでしょう、とだけいう。割り切ったような絢瀬の答えに、彼は唇をとがらせてつまらなさそうにする。
つん、ととがらせたヴィンチェンツォの唇を指先でつつきながら、なんでもかんでも聞いて嫌われたくないのよ、という絢瀬。その顔は穏やかで、嘘を言っているようには見えない。
「私が君を嫌う事なんてないのに」
「絶対はないでしょう? だから、ちょっとだけ怖いのよ」
「分からないよ? 言ってくれたら、喜んで私は君になんでも教えると思うけどなあ」
「ふふ。その言葉、うれしいわ。ありがたく受け取るわね」
笑った絢瀬は、カバンの中に入れたアイスのゴミを捨てるの忘れた、と言って寝室に戻るために席を立つ。ぱたぱたとリビングダイニングから遠ざかるその後ろ姿に、スープが冷える前に戻ってきてね、と声をかけるヴィンチェンツォだった。
少しだけ、二人の間に落ちた沈黙はいつもよりも冷たくて、誤魔化すようにヴィンチェンツォは普段は立てない音を立ててスープを啜った。