「……?」
「どうしたの?」
「んん……いや、なんでもないよ」
なんでもない、と答えたヴィンチェンツォの表情は、どこか違和感を覚えているような顔だった。なにか、しっくりこないという顔をしながら、彼は食事を終える。
絢瀬の空になった皿を受け取り、食洗機に入れる。いつもと変わらない朝の光景だ。暑くなってきたから、冷たい飲み物が飲みたいよね、と昨晩のうちに耐熱ガラスのピッチャーに作った水出し紅茶をグラスに入れる。
「アヤセも飲むかい?」
「ええ、お願い」
「砂糖とミルクは?」
「分かってて聞いてるわね? いらないわ」
「君って本当に入れないねえ」
たまには甘いのもいいと思うよ。
そう笑いながら、ヴィンチェンツォは自分の分の紅茶に角砂糖を一つ入れる。来客用のミルクポーションも、期限が来る前に使わなきゃいけないね、と話しながら、ソファーに腰掛けている絢瀬に紅茶の入ったグラスを手渡す。
「来客なんてあまりないし……買わなくてもいいかもしれないわね」
「まあそうなんだけどさ。でも、たまにアヤセのマンマが来るじゃないか」
「ああ。母さんは必要な人だわね……買っておいた方がいいわね」
あの人、ミルク入ってないとしょんぼりするもの。
紅茶を啜りながら、絢瀬は呟く。冷蔵庫でよく冷やされた紅茶は、冷たくて心地良く喉を通っていく。
そろそろ職場に持っていく水筒も大きなものにしよう、そう思っていると、隣に座っていたヴィンチェンツォが口元に手を当てる。どうしたのだろうと思って彼の方を見ると、太い眉をしかめて何かに耐えている。まるで――冷たいものがしみるのを堪えているような、そんな顔だ。
まさか、と思って絢瀬は彼の手を退けると、口を開けるように促す。
「開けなさい、ヴィンス」
「だ、大丈夫だよ。なんでもないよ」
「なんでもなくないでしょう。ほら、なんでもないなら、口くらい開けられるでしょう?」
「うっ……」
「開けなさい、ヴィンス」
絢瀬の圧力に屈したのか、ヴィンチェンツォはゆるゆると口を開ける。小さく開けた彼の口に手を入れ、思い切り開けさせる。
アヤセ、という彼の声を無視して絢瀬は彼の口内を確認する。一箇所、他の歯より白く濁っているように見える。前に歯科医に、初期の虫歯は白くくすんで見えると言われたことを思い出し、もしかしたら虫歯かもね、と言う。
そして彼の普段の食生活を思い出す。三食よく食べ、甘味だったり、そうじゃなかったりとは言え、おやつもよく食べる。身体の大きさを考えれば、消費するカロリーもずっと多いから仕方ないことだと思っていたが、歯磨きはきちんとしているのかまでは確認していなかった。
はあ、とため息を吐いて、歯医者に行きなさい、と諭す絢瀬。ええ、と嫌がるヴィンチェンツォはそっぽを向く。
「デンティスタは……嫌だなあ」
「虫歯になったのは自分のせいでしょ。歯磨きはちゃんとしていたの?」
「していた……つもりなんだけどなあ」
「歯の溝とか、ちゃんと磨けていなかったんでしょうね。ほら、デンティスタに行ってきなさい。診察券あるでしょう?」
「……どうしても行かなきゃダメ?」
「治るまで、キスがお預けでもいいなら行かなくてもいいわよ」
「それは困るよ! 診察券、どこにやったっけ」
「呆れた身の変わりようね……」
テレビボードの右側上の引き出しになかったかしら。
診察券などをまとめて入れてある場所を言うと、そそくさと探し始める。そんなヴィンチェンツォの様子に、呆れたため息を溢す絢瀬。
キスができないのがそんなに嫌かと尋ねれば、嫌だよ、とすぐに返事が戻ってくる。
「アヤセは嫌じゃないのかい? キスができないのは」
「そうね……嫌よ? だから、早く治してきて?」
「もちろんだよ。ああ、デンティスタの治療、好きじゃないんだよ。あの、きゅいーん、ってやつがさ、耳に残って嫌なんだ」
「ああ、それは分かるわ。あの音、削ってるんだから仕方ないとは言え、妙に高い音だから、耳に残るのよね」
「そうなんだよ……はあ、やっぱり行かなきゃダメかい?」
「んもう、さっきまで行く気満々だったでしょ。ちゃんと治るまでキス禁止よ」
「治るまで? え、じゃあ経過観察だったら、どうするんだい? していいのかい?」
「ダメに決まってるでしょ。経過観察は治ったうちに入らないもの」
すっぱりと絢瀬からキス禁止令が出されて、ヴィンチェンツォは顔を真っ白にする。経過観察でもダメだと言われ、それこそ真っ白な灰のようになっている。
そのまま膝を抱えて、じめじめとキノコを生やしそうな彼に、虫歯は感染(うつ)るのよ、と絢瀬は諭す。
「あなたが嫌な思いをするのよ、わたしに虫歯を感染したって。なにも、嫌がらせで言ってるわけじゃないのよ、わたしだって」
「分かってるけどさあ……」
「あれは菌による感染症よ? 間接的な……回し飲みも、あなたがちゃんと治すまでやめにしましょうか」
「それもダメなのかい……」
「ダメよ」
だから、嫌なら病院行きなさい。
そう諭すと絢瀬は、まだ午前診療に間に合うわよ、とダメ押しをする。ずず、と紅茶を啜りながら、ちらとヴィンチェンツォを見ると、分かりやすく凹んだままだったが、のそのそと診察券を探しに戻る。
治るまでの間でも、ハグはしてもいいかい。あまりにもしょんぼりした声で言うものだから、絢瀬は紅茶を盛大に咽せる。
げほげほと咳き込みながら、それくらいならいいわよ、と許可する。それだけでヴィンチェンツォの雰囲気は明るくなり、見つけた診察券を持って、行ってくるよ、と足取り軽くリビングを後にしていった。