あさってはキスの日らしいですよ。
終業後、残業が確定してしまった妋崎(せざき)はぼそりという。なにそれ、と叶渚(かんな)が尋ねると、昼休憩の時にツイッターで流れてきたんですよ、と返ってくる。
「なんでも、昭和二十一年に日本ではじめてキスシーンが含まれる映画が公開されたからだとかなんとか」
「へえー。オタクってそういうの詳しいよね」
「まあ、ネタになりますしね、創作の。後なんだっけな、ラブレターの日だったかな」
「へえ!? それはなんか理由あんの?」
「えーっと……語呂合わせだったような? ラブレターって名前の映画の公開日だったっけ? なんか、まあ、そういう理由です」
「ふーん。面白い日じゃん」
「剣崎(つるぎざき)さんはなんかやるんすか」
「なんもやらんけど? あ、絢瀬はなんかやる?」
荷物をまとめ終えた絢瀬に突然振られた話題に、なにが、と返す。
「明後日、キスの日でラブレターの日なんだってさ」
「そうなの? 今知ったから、別に何もする予定はないけど……」
「なんだあ、イチャラブな話題が聞けると思ったのに……って、秋咲さーん、荷物は置いてからトイレ行ってくださーい。あなたも残業でしょーが」
「い、いやっ、これはねっ」
「はいはい。トイレ行くのにそんな大荷物いりませんよー。じゃ、お三方また明日」
しれっと逃げようとする秋咲に釘を刺しながら、猛烈な速度でキーボードを叩いていく妋崎。ブラインドタッチでキーボードを叩きながら、彼は帰路につく絢瀬と叶渚、修子を見送る。部長の六十苅もお疲れ様、と見送る。秋咲だけ、恨めしそうな目で見送りながら挨拶をする。
三者三様の見送りを思い出しながら、絢瀬は目の前のレターセットを見る。それは金曜日の帰りに冗談半分で買ったものだ。明後日がラブレターの日なら書いたらどうだ、という叶渚の言葉に釣られて買ったそれは、目下絢瀬を悩ませていた。
柔らかいクリーム色のそれは、目に優しい色合いだ。十枚綴りの便箋を前に、ボールペンを走らせようとして止める。それを昨日から何度か繰り返している。
あまり長い時間離れていると、耐えきれなくなったヴィンチェンツォが絢瀬に会いにやってくるため、彼が手を離せない食事の準備中などでしか向き合えない。
一文字も便箋に書けないまま、時間だけがすぎていく。もういっそ、このまま何も書かないままでいいのではないか。なにもラブレターの日だからって、何もラブレターを書く必要はないのではないか。悶々と書かない理由を作ろうとして、どうせならいつも言えないことを書き出したら喜びそうだ、と書く理由が思いついてしまうループだ。
はあ、とため息をついて、絢瀬はボールペンを手帳に差す。ぐるり、と部屋を見る。机のあるダイニングで書こうものなら本人に見られてしまうし、かといって寝室には机はない。仕方なしにヴィンチェンツォの仕事部屋でラブレターを書こうとしたのだが、どうにも彼が平日の大半を過ごしている部屋だと思うと落ち着かない。
壁一面に用意された棚には、本の他にフォトフレームが並んでいる。L字型の机は窓を背にするように置かれており、入り口が見えるようになっている。部屋の真ん中には背の低い棚とマガジンラック。棚から溢れんばかりに詰め込まれたスクラップブックに、綺麗に入れ直したら、もう何冊か入りそうだな、と考える。
(って、片付けはまた今度でいいのよ)
身体をしっかりと受け止めてくれる椅子に全身を預けながら、絢瀬は大きく伸びをする。
ぱきり、と凝り固まった肩を鳴らしながら、絢瀬はふと気がつく。変にあれこれ考えて、真面目なラブレターとして書こうとするからいけないのだ。これは彼の良い点と悪い点を伝えるものだとして書こう、と。
そう考え直してからは、便箋に走らせる手は止まることを知らなかった。先ほどまで詰まっていたのはなんだったのかと思うほど、するすると言葉が出てくる様は、蛇口を捻って出てきた水を見ているようだった。まさに思考の切り替えという手が、言葉という水を堰き止めていたものを取り払ったかのようだった。
「……これ、半分くらい直して欲しいところじゃない……?」
朝得意じゃないのに早起きしてくれるところから始まった誉め言葉は、毎日の家事をはじめとした食事の準備やいつもデート先を選んでくれるところまで幅広い。
それと同じだけ、やたら色々言わせようとするところや、人目を憚ることなくキスをしようとするところは直して欲しいとも書く。人目のない――自宅や人気のない公園ならまだしも、大通りでイチャつきたがるのだけ改善して欲しいのだ。だいぶオープンになってきて――ヴィンチェンツォに慣らされてしまったとはいえ、やはり性根は日本人らしく恥じらいがあるのだ。
カリカリとペンを便箋に走らせていると、扉が二度ノックされる。慌てて便箋をひっくり返すと同時に扉が開かれる。プランゾの時間だよ、とにこにこしながらヴィンチェンツォは部屋に入ってくる。
「あれ? 手紙? 誰かに送るのかい?」
「ええ、とても素敵な紳士に送るラブレターよ」
「へえ……」
「あなたも一番よく知っている人より」
「ふーん」
すっかりヘソを曲げたヴィンチェンツォを、可愛らしいと思いながら、絢瀬はラブレターの日なんですって、という。それを聞いた彼はジャポネーゼ大好きな言葉遊びかい、と返す。
「ええ。こいぶみ、って読ませるのもあるけど、この日にラブレターっていう映画が上映されたからだそうよ」
「ふうん。素敵な日だね」
「あとは、キスの日ですって。なんでも、その日に――」
「最高の日じゃないか! それはいつなんだい?」
「人の話を聞きなさいよ……日曜日ですって」
「いいね、最高だ。ドメーニカだし、一日家にいようよ」
一日中君とキスをするよ。
浮かれたように絢瀬の手を握りしめるヴィンチェンツォに、唇が腫れちゃうわね、と笑う絢瀬。唇が腫れても君は素敵だから大丈夫だよ、とにこにこしている彼は、とりあえずはプランゾにしようよと提案する。
「そうね。今日は何かしら」
「なんだと思う?」
「あら、教えてくれないの?」
「だって、私じゃない素敵な紳士に浮気してるもの。ちょっとした仕返しくらいさせてくれよ」
「あら、あなたより素敵な紳士はいないわよ?」
「本当にそう思ってる?」
「本当よ。さっきのだって、目の前の素敵な紳士に送るつもりだったのよ」
誰かさんの早合点ね。
ヴィンチェンツォの丸太のような腕に絡んだ手を引き抜き、絢瀬は一足先にリビングに向かう。
半テンポ遅れて、彼女が誰にラブレターを送るのかが分かった彼は、私も素敵なベッラに送ろうかな、と少し大きな声で言う。それが聞こえて、絢瀬はわたしの知ってる人かしら、と返すものだから、ヴィンチェンツォはもちろんさ、と返したのだった。