ヴィンチェンツォはジムの大浴場で汗を流していた。手足をぞんぶんに伸ばせる、それだけでトレーニングの疲れも吹き飛ぶと言うものだ。
自宅ではなかなか伸ばせない手足を思う存分に伸ばしていると、相変わらずいい筋肉してるねえ、と声をかけられる。振り返ると、ヴィンチェンツォほどではないが、しっかりと鍛えられた筋肉の男性が立っていた。
「やあ、ケイイチ。久しぶりじゃないか」
「いやー、仕事が修羅場迎えててさ。来るのが深夜とかになっちゃってたよ」
「それは大変だったね。ちゃんと寝ることはできていたのかい?」
睡眠はなによりも大切にするべきだよ。
そうヴィンチェンツォが尋ねると、なんとかな、とケイイチと呼ばれた男――水野慶一は返す。その目元にはうっすらと隈があり、言うほどしっかり眠れていなかったのだろうと予想できる。
とはいえ、そこをとやかく言うのは野暮というものである。無茶もほどほどにね、とだけ忠告すれば、無言で頷かれる。
「そういやよ、ヴィンスはあの店知ってるか?」
「うん? どのお店だい?」
「ここの向かいにバス停あるだろ。その近くの商店街にテナント募集がいくつかあったろ? あそこ、一個新しい店入ったんだよ」
「へえ。それは知らなかったな」
「まー、ヴィンスの通り道じゃねぇしな。肉屋の隣にあった空き店舗に、こじゃれたパン屋が入ってさ。そこの菓子パンがうめえんだって話よ」
「それは行かないとね。あそこのマチェレリーア、コロッケおいしいから食べたくなってきたな……」
「パンじゃねえのかよ!」
「パンも食べたいけど、コロッケも食べたくなったんだよ! あ、惣菜パンはあるのかい? 焼きそば挟んだコッペパンみたいなのはさ」
職場の子が食べててびっくりしたんだよね。
いつだったか、巣鴨が持ってきていたコンビニの惣菜パンを思い出してそう言うと、水野は顎に手をやり考える。
「あったかな……俺も帰り道にちらっと見ただけだからよ、なんとも言えねえわ」
「そうかい……」
「あー。なんなら、今日行くか?」
「本当かい!? ぜひ行こうよ。ああ、アヤセにあとでプランゾはおいしいパンだよって教えてあげないと」
「お前、本当に恋人にくびったけだな……」
のぼせる前に出ろよ、と水野は先に風呂から出る。その言葉に、ふと時計を見る。長針はずいぶんと進んでいて、思いの外長く入っていたことを告げている。
私も出るよ、とヴィンチェンツォは水野の後に続く。身体の水滴をタオルでぬぐい、ロッカーに放り込んでいた下着を履く。着替えながら、できたてのバゲットがあるといいなあ、とヴィンチェンツォは期待に満ちた声を出す。
「バゲットぉ? サンドイッチでも作んのか?」
「いやね、できたてのバゲットにオリーブオイルをたっぷり垂らして、塩を振って食べるんだ。すごくおいしいんだよ」
「ほー。オリーブオイルに塩ねえ」
「オリーブオイルはたっぷりだよ。ケチっちゃダメなんだ。パンからバターがじわっと出てきたら、君だって嬉しいだろう?」
「あー、それは分かる。じゅわっと出てきたバターほどうまいもんはねえからな」
「でしょう? 塩はね、岩塩を削ったのがいいね。私、サイゼリヤでよくやるんだ」
「マジ? ああ、でもうまそうだな。今日バゲットがあったら、買ってやってみるかな」
「やってみてよ。おいしいのは保証するよ」
着替え終わり、ロッカーキーを返却する。二人は荷物を抱えて、横断歩道を渡る。商店街に向かう道すがら、思いついたように水野は尋ねる。
「サイゼっていうと、やっぱイタリア人的にはイタリアの味がして楽しいもんなのか?」
「あー、そうだね。アレンジ次第だけど、マンマの味になるね。私はわりと行くよ、月に二回くらい」
「そこそこ行ってんだな。アレンジかー、ツイッターとかで見るけど、実際行くと面倒でやらないんだよな」
「もったいないよ。トマトソース系のパスタに、追加でチーズとオリーブオイルをかけるだけで、マンマの味になるのに」
「マジか。そんなに化けるのか」
「マジだよ。なんなら、私がアレンジするよ」
今度サイゼリヤ行こうよ。
ヴィンチェンツォの提案に、水野はいいぜ、と返す。来週は埋まってるから再来週な、と日付を指定してくる彼に、再来週の土曜日でいいかい、と確認する。空いてるな、とスマートフォンのカレンダーを確認した水野は、手慣れた手つきで予定を入力する。
「じゃあ、再来週の土曜日、ジムの帰りでいいかな?」
「おう、いいぜ。モノホンのイタリア人オススメのアレンジ、楽しみだな」
「絶対おいしいから、君もやりたくなるよ」
保証するよ。
ウィンクもつけて言われた言葉に、水野は苦笑する。期待値を爆速であげながら、二人は昔ながらの肉屋でコロッケを注文した。人の良さそうな老婦人は、にこにこと笑いながら、おまけだよ、と更にもう一つずつコロッケを入れてくれた。