ふ、と意識が浮上した。
一度眠りに落ちると、絢瀬は朝まで起きることが少ないのだが、今日の夜だけはそうではなかった。ふわり、と水中からあがるように、スムーズに意識が浮上した。一瞬、もう朝かと誤認するほどだった。夜光塗料が針に塗られた時計を手元にたぐり寄せれば、まだ深夜といって差し支えない時間帯だった。
しかし、あまりにもスムーズに目が覚めてしまったものだから、二度寝をするのもなんだかもったいないほどだ。とはいえ、真夜中にずっと起きているわけにはいかないし、朝を迎えれば仕事が待っている。夜更かしをし続けるわけにはいかないのだ。とはいえ、このまま布団のなかに居ても寝付けそうにない。
(ホットミルクでも作れば、眠れるかしら)
自分を抱えて眠り込んでいる恋人が憎らしい。健康的にゆっくりと息を吸って吐いて、吸っている。ゆるゆると肩や胸が動いている。起きそうにない恋人の腕を身体からどかそうとするが、意識のない人間というものは体重の全てが重力に従っているものだから重たいものだ。ましてや、一部とはいえ、百キロを超える体重がのしかかっているのだ。絢瀬の細腕ではどかすことは難しい。
仕方がないので、持ち上げるのではなく、身体ごと腕をくぐり抜けることにする。のしかかっている腕をそのままに、足の方へ身体をずらす。
「……うん……?」
「あっ……!?」
「んん……」
「……よかった……起きてない……」
腕の上を絢瀬の身体が移動したからだろう。ヴィンチェンツォはむず痒そうな声を上げる。もぞもぞと腕をくぐり抜け、掛け布団の中に全身を沈める。そのままもぞもぞとベッドの端に移動する。夏用とは言え、布団の中は真っ暗で、感覚だけでベッドの端のほうへ移動する。背中がひんやりとした夜の空気に触れて、ベッドの端に到達したのを察する。
そろりと足を外に出す。ぬるいフローリングにつま先を下ろし、ぺたりと足の裏をつける。そのまま左足も下ろして、ずるりと身体をベッドから滑りおろす。ぺたん、と尻餅をついて、そっと絢瀬はヴィンチェンツォの方を見る。穏やかに眠り込んでいる彼を起こしていないようで安心した彼女は、そのままルームシューズをたぐり寄せて静かに寝室をあとにする。
リビングダイニングのドアを開けて、すぐのカウンターキッチンに入る。壁際の冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出す。一リットルの容器を少し振ってみれば、中身はまだ少し残っているようだ。カウンターキッチンから出ると、食器棚に向かう。マグカップを取り出して、牛乳を注ぎ入れる。カップの半分よりやや多い量ぐらいしか入ってなかったそれを全て注ぐと、牛乳パックを洗って逆さまにしてシンクに立てる。
電子レンジにマグカップを入れて、牛乳を温めるモードにする。じじじ、と電子レンジが動く音を聞こえてくる。その間に、何かが窓を叩く音が聞こえてくる。
なんだろう、と思って窓に近寄る。えんじ色のカーテンを開けて、レースカーテンをずらす。七階の窓を叩くものは雨粒だった。最初こそぽつ、ぽつ、と少しだけだった雨粒が、徐々に増えていく。ぽつ、ぽつ、という雨音がぽつぽつに変わっていき、やがて窓ガラスを強めにたたきつけるような音に変わっていく。
これは明日のバスは混むだろうな、と思っていると、ちん、と電子レンジが音を立てる。あたためが終了したのだ。
「あつっ……」
マグカップを持ち上げ、牛乳に口をつける。少し温めすぎたそれは、飲み頃になるまで放っておくしかない。
電気をつけることもなく、ただぼうっとソファーに腰を下ろす。ぬるい空気の中、電気をつける気にもならず、窓越しに聞こえる雨の音だけが唯一の音源だ。窓の近くで聞いていれば、それなりに大きな雨粒がぶつかる音も、窓から離れたらちょうどいい音楽だ。そっとその音に聞き入りながら、マグカップに口をつける。ちょうどよく温くなったホットミルクを嚥下する。胃の中からじんわりと温かくなる。
ゆっくりと飲もうとも、そもそもマグカップ半分程度しかないのだから、すぐになくなってしまう。空になったマグカップに水を張ってシンクに置いておく。下手に洗って仕舞うと、ヴィンチェンツォがちゃんと洗ったかと尋ねてくるのだ。そのときの彼は、それはもうそわそわとしていて、もう一度きちんと洗いたいと顔に書いてあるのだ。それは絢瀬を信頼していないわけではなく、くすみや茶渋が気になるからだ。絢瀬はそこをそれほど気にしないのだが、ヴィンチェンツォは大雑把なわりに、食卓に並ぶカトラリーに関しては綺麗なものがいいと主張するのだ。
そういう細やかな相違点が楽しくなって、一緒に居て楽しいのだ。
そんなことを思いながら、絢瀬はくあ、と大きな欠伸をひとつする。腹にいれたホットミルクの効果だろう。体内から温まってきたから、眠気も訪れたのだろう。そうっと寝室の扉をあけると、掛け布団が盛り上がっている。どうやら、恋人は夢の国にまだ滞在中のようだ。
起こさないように慎重にベッドに潜り込む。恋人の腕の中にすっぽり収まるが、布団が持ち上がったことで外気が入り込む。そのことでうっすらまぶたが持ち上がったが、腕の中に絢瀬がいることを確認すると、彼は満足したように目を閉じる。そのまま深い寝息を立て始めたのを聞きながら、絢瀬も目を閉じた。