寝る前にこっそり食べた甘い物のせいかもしれないが、涼介は上の歯に虫歯が出来た。痛くない、大丈夫、やだ、いきたくない。散々だだをこねてみたが、母親には通用せず、自宅のあるマンションからほど近い歯医者に連れてこられた。
おだやかな生成り色の壁紙に、やわらかい薄いたまご色の照明。アイビーグリーンのソファーは壁にぴったりと寄せられている。トイレの手前、ソファーとの間に三畳ほどのスペースがあり、そこにはソファーと同じ色のマットが敷かれている。深いブラウンの箱には長編連載の国民的少年漫画などが入れられている。別の箱にはぬいぐるみがいくつか入っており、キッズスペースとなっている。
男女それぞれに向けた雑誌も何冊か置かれており、この歯科医院が地域に根ざしているのが分かる。それでも、涼介は歯医者が苦手だった。マンガを読んでいても、あのなんともいえないドリルの音を思い出してしまい、もう帰ると叫びたくなるのだ。
「すいません、息子が虫歯みたいで……」
「わかりました。保険証と診察券お願いしますね」
「ままー……」
「だめっ」
「ちぇー……」
母親が受付と話している間、涼介はぶすくれた顔でソファーに向かう。すでにソファーには先客がいた。ちょっとぎょっとするほど大きな――父親や、クラスで一番大きな山上よりも大きい男性だ。顎髭を生やした彼は涼介に気がつくと、どうぞ、と自分の隣を指さす。
エスコートされるがままに彼の隣に座る。じっと見上げて、彼を見る。少し居心地が悪そうにしていた男性は、きみも虫歯かい、と尋ねてくる。
「うん……アイス食べてたら、きーんって痛くなった」
「そっかあ。私もアイス食べていたらね、きーんってしちゃったんだ」
「おじさんも?」
「そうだよ。おそろいだね」
「そっかあ。おじさんでもアイス食べるんだね」
「そうだよ。おじさんでもアイス食べていいんだよ」
でも、食べたらちゃんと歯磨きをしないといけないけどね。
そう言いながら、彼は左の頬にふれる。どうやら、左側の歯に虫歯ができているらしい。涼介も彼と同じく左側が痛むので、なんとなしに共感する。ちら、と受付を見ると、母親がこちらに向かってくる。隣の男性にぺこり、と頭を下げた彼女は、涼介にカバンを見ていてねと言うと手洗いに向かう。
左隣に置かれた母のトートバッグを持ちながら、涼介は隣に座る男性に声を掛ける。目を見て話してくれることもあって、すっかり彼は目の前の男性になついていた。
「おじさん、歯医者へーき?」
「私かい? あんまり平気じゃないなあ」
「大人なのに?」
「大人でも苦手さ。あのドリルの音がね」
思い出しただけでも嫌になってきた。
分かりやすくげんなりした表情の彼に、涼介は僕も苦手、と返す。高いきゅいーん、という音も、低いモーターの音もどちらも怖いのだ。削っている箇所によっては痛みなのか、音から来る幻覚なのか、しびれるような何かを感じるのも好きではない。思い出しただけでチベットスナギツネのような、なんとも言えないしょっぱい顔をしてしまう。
二人してしょっぱい顔をしながら、歯医者さん怖いねえ、と話していると、ヴィンスさーん、と診察室へ繋がる扉が開かれる。マスクをした歯科衛生士の男性が声を掛けてくる。
「バンビーノ、私先に行くね」
「うん。おじさん、がんばってね」
ヴィンスと呼ばれた男性が診察室に向かう。扉をくぐるときに、下がり壁をつかんでいたのがあまりにも面白くて、でかいってすげー、と思わず呟いてしまう。
トイレから戻ってきた母親に、さっきのおじさんめちゃくちゃでけーんだよ、と教える涼介。あそこ手でつかんでた、と扉の下がり壁を指さす。母親は冗談だろうと笑っていたが、本当だよ、と涼介は反論する。
「めちゃくちゃでっかかったんだよ、あのおじさん。扉のあそこに、頭打っちゃうんじゃないかって思ったもん」
「はいはい」
「嘘じゃないもん!」
「分かったから、涼介、ちゃんと座って」
そんなやりとりをしていると、女性の歯科衛生士が扉を開けて声を掛けてくる。どうやら、涼介の番が来たようだ。
「谷口さーん」
「はーい。涼介、一人で行ける?」
「いけるよ」
母親に自信たっぷりにそういうと、涼介は診察室に向かう。一番のお部屋に入ってね、と言われて、一番手前のパーテーションで区切られた空間にはいる。歯科用ユニットのイスに座ると、どうにもこうにも緊張してしまう。歯科衛生士の女性にエプロンをつけられて、涼介はいよいよ覚悟を決めるのだった。