「アヤセ、ドルチェにカステラはどう?」
「カステラ? 珍しいわね、もらおうかしら」
夕飯を済ませた二人は、風呂が沸くまでの間のんびりと過ごしていた。特に見たいテレビ番組があるわけでもなく、読みたい本があるわけでもない。ただ二人は、ワインレッドのソファーに並んで腰を下ろして座っていた。
持ってくるね、とヴィンチェンツォが持ってきたのは、右上にでかでかとおつとめ品と書かれた袋。うきうきとヴィンチェンツォは袋を開ける、カステラサンドとレトロポップなロゴの袋から一つ、どら焼きのような形をそれをつまむと、はいと絢瀬の口元に一口サイズのそれを運んでくれる。ひな鳥よろしく口を開けると、ぽい、と放り込まれる。
カステラ全体にまぶされたザラメの甘さと、カステラの甘さが口いっぱいに広がる。それでも、それほどしつこくないのは、一口サイズゆえのザラメの少なさと、カステラの甘さが素朴なものだからだろう。甘い物がそれほど得意ではない絢瀬でも、もう二つほど欲しくなる味だ。
「おいしいわね」
「だろう? おつとめ品で百円だったんだ。びっくりしたよ」
「百円で買えるのならお買い得ね。もう一つもらってもいいかしら?」
「もちろん。どうぞ」
「……自分で食べられるわよ?」
「私がやりたいんだよ。いいかな?」
ヴィンチェンツォはにこにこと笑って絢瀬を見る。あまりにも穏やかで、慈愛のこもった目で見つめてくるものだから、彼女は仕方ないわねと笑って口を開く。どうぞ、と押し込まれたカステラを咀嚼する。やさしいハチミツが使われている甘さの中に、ほのかにリンゴのジャムのような甘さを感じる。そのことをヴィンチェンツォに尋ねると、彼はパッケージの裏面を見る。
「本当だ。リンゴジャムが使われているね」
「やっぱり。味に奥行きがあるような気がしたの」
「すごいなあ。でも、そんなに甘くないから、あまりたくさんは使われていないんだろうね。隠し味かな」
「そうかもしれないわね。……そういえば、ジャムってよく隠し味に使われているわね」
あなたに作って欲しい料理を調べていると、隠し味にジャムを使うレシピを時々見かけるのよ。
そう口にした絢瀬に、そうだねとヴィンチェンツォは言う。ちなみに今日の料理にもジャムが入っているよ、と告げれば、そうなのと絢瀬は驚いた顔をする。今日の夕飯は豚の生姜焼き、そしてサラダだった。どちらかだけなのか、と彼女が尋ねると、両方に入っているよと返ってくる。
まだ生姜焼きはたれに使われているのだろうが、サラダのどこにジャムが使われているのかさっぱりわからない。考えても、そもそも料理が得意ではない絢瀬からすれば、どこから見当をつければいいのか分からない。まったくのお手上げ状態だ。両手を肩まであげて、降参、と告げる。
「分からなかったかな?」
「生姜焼きは……多分、たれかしら? サラダは分からないわ。たしかに、いつものドレッシングじゃなかったけれど……」
「生姜焼きはね、リンゴジャムを使ったんだ。サラダのドレッシング、マーマレードを使っているよ」
ゴマドレッシング買いに行く時間がとれなくてね、作っちゃった。
そう笑った彼に、絢瀬はマーマレードを使ってドレッシングなんてできるのかと尋ねる。できるから作ったんだよ、と笑ったヴィンチェンツォは、お酢と塩とオリーブオイルと混ぜるんだよと事もなげに言う。
「比率は決まっているの?」
「お酢は大さじ二、塩は小さじ二分の一だね。それで、オリーブオイル大さじ二に対して、マーマレードが大さじ一から二ってところだね。今日は大さじ一にしておいたんだ」
「へえ……それだけでドレッシングになるのね」
「なるんだよ。よくマンマが作ってくれてさ。うち、マーマレードのジャム、あんまり食べないから、どうしても余っちゃうんだよね」
「そんなに食べないのに、食べたくなるときってあるものね」
「そうそう。それで冷蔵庫の奥にしまいこんじゃうから、買うとすぐにドレッシングにされちゃうんだよ」
ちなみに、生姜焼きのたれにリンゴジャムを使うのは、カズヨシのマンマがそうしてるんだって教えてくれたよ。
そう笑った彼は、絢瀬の義兄・和義からもらったレシピについて話す。ゴールデンウィークに帰省した際に、なにやら話していると思ったらこういうことだったのか、と絢瀬は腑に落ちる。誰にでも距離が近いヴィンチェンツォだから、義兄と一緒に居ること自体は何も違和感を感じなかった。
「みりんと砂糖の代わりにリンゴジャムを入れるだけで、もっとおいしくなるなんてね。これじゃあ、たくさんジャムを買っちゃうね」
「あら、そうなると食パンもたくさん必要かしら」
「そうだね。コラツィオーネにもチェーナにも使えて、万能だね」
「そうね。でも、食パンにいっぱい塗りすぎて、チェーナに回す分がなくなっちゃうんじゃないかしら」
あなた、甘いものが好きだもの。
絢瀬は笑ってそう言う。綺麗なきつね色に焼けたトーストに、目一杯ブルーベリージャムを塗りたくる光景を幾度となく見てきたから分かることだ。指摘されたヴィンチェンツォは肩をすくめて、ジャムも本来の使い方をされたほうが嬉しいさ、と言う。
それもそうね、と返しながら、絢瀬は彼の手にある袋から、また一つカステラを取り出す。さすがに三つ食べれば、一口サイズのカステラとはいえ、飽きてしまう。あとは明日にしたらどう、と彼女が言う前に彼はおいしそうに残りのカステラを口に入れていた。
また虫歯になるわよと言いながら、絢瀬はちょうど風呂が沸いたから入ってくると告げる。脱衣所に向かう彼女に、ちゃんと歯を磨くから平気だよ、とヴィンチェンツォはその細い背中に返事をした。