陸上は深いため息と共に車のエンジンを切る。静かになった車内で、いつもよりも緩慢な動作でシートベルトを外して、ネクタイのノットを緩める。早く家に帰り、風呂に入ってダラダラしたい、という気持ちもあるのだが、いかんせん精神的な疲労がピークに達している体では、「車から降りる」という単純な動作すら億劫だ。
目を閉じて深くため息をもう一度つく。朝から厄介なことばかりが続いていた上、後輩の尻拭いをして――陸上の仕事ではないものまで頼まれ、しなくていい残業をすれば、誰だって疲労困憊もいいところだ。強いて言えば、明日が休みであることだけが救いだった。
半泣きの後輩を放って置けなかった自身の甘さに嫌になりながら、陸上はため息をもう一度ついてから車の扉を開ける。舗装された駐車場に革靴を履いた足を下ろして、もう一度ため息。体を起こすことをイメージしながら、そのイメージ通りに体を起こす。車のドアを閉めて施錠して仕舞えば、だらだらと過ごす場所を失った体と精神は、嫌でも自宅に向かわざるを得ない。
郵便受けを確認して、中にダイレクトメールばかりが入っていることに落胆しながら回収する。ニ階に向かうための階段を登る動作すら億劫で、大きなため息をついて足を持ち上げる。どうしてエレベーターがないのだろうと考えて、法律的に問題ない階数しかない建物だからないのだ、と自分にツッコミを入れる。
いつもよりも時間をかけて階段を上がり、いつもよりも時間をかけて玄関ドアを開ける。のろのろと施錠して、革靴を脱ぎ捨てる。きちんと並べるのも億劫で、脱ぎ捨てたまま自室へと向かう。部屋にはいり、ジャケットをかろうじてハンガーに引っ掛けることに成功した陸上は、そのままベッドに大の字に寝っ転がる。
夕食を作る気力もなければ、今から食べにいく気力もない。そもそもの話、食欲がないのだ。大きなため息を吐いて、肺の空気を入れ替える。
いっそ風呂も明日にしてしまうか、と思っていると、消灯したままのスマートフォンが、ちかちかと通知ランプを点滅させていることに気がつく。のそのそと動いて、こんな時間に、と半ば苛立ちながら陸上はスマートフォンを点灯する。内容によっては未読のまま通知を消して、明日の朝確認したことにしようと思っていたが、そこにあったのは奈々美からの連絡だったものだから、思わず頬が緩んでしまう。
重たい指を動かしてメッセージアプリを起動させると、陸上はメッセージを受信した時間から、まだ起きているだろうと算段する。しかし夜も遅い時間に電話するのは一般常識としてまずい、と思った時には通話ボタンを押していて、キャンセルをする前にその通話はつながっていた。
「もしもし? 珍しいね、鷹山くんから電話なんて」
「あー……いや、かけるつもりはなくてな……」
「そうだったの? でも、アタシは嬉しいな」
スマートフォンのスピーカーから聞こえてくる、電子変換された彼女の声に、体の底に淀んでたまっていた疲労が溶けていくような感覚を感じる。首を締めているネクタイを片手で外しながら、陸上は明日の休みは暇なのか、と尋ねてくる奈々美に暇だと返す。家に遊びに行ってもいいか、と尋ねてくる彼女の声は、いつものような明るさのなかに、邪魔ではないかと心配する色が混じっている。
疲れているときに人に会いたくないだろう、という彼女の気遣いをありがたく思いながら、陸上は遊びに来てもいい、と返事をする。正直なところ、きちんと構ってやれるかは分からなかった。だが、かわいい年下の恋人のおねだりに勝てるはずも無かった。つくづく甘い自分に苦笑しながら、昼過ぎまで寝ているかもしれない、と陸上が言えば、奈々美は連絡してからいくね、ところころと鈴が鳴るような声で返事をする。
頑張って起きるよ、と苦笑いを含んだ声で陸上が告げれば、無理だったら大丈夫だよ、と心配を含んだ声で奈々美が返事をする。夜遅いからもう寝るね、と言った彼女の声を聞いて、おやすみ、と挨拶をする。通話が終わったスマートフォンの画面を見ながら、陸上はのっそりと起き上がる。スラックスのベルトを外してクローゼットに放り込み、ベッドの上に放っていた脱ぎ散らかしたままのネクタイを拾い上げる。
先程よりは軽く、いつもよりは重たい足取りで脱衣所に向かい、鎮座しているドラム式洗濯機にネクタイを放り込み、そのまま風呂場に入って浴槽の水抜きに栓をして、お湯はりのボタンを押す。湯をため始めた浴槽をちら、と見て、彼は腹が減ったな、とぼんやり考える。さきほど電話するまでちっとも腹が減ったように思わなかったというのに、たった数十分ばかり恋人と話しただけで、多少なり気力が回復したのかもしれない。
とはいえ、今から食事を作るほどの元気もない陸上としては、今日は冷凍餃子を焼くだけでいいか、と考える。冷凍した白米を温め直して、餃子を焼くだけでも十分だと自分を鼓舞しながら、陸上はのそのそとキッチンに向かうことにした。