「っあー……」
ちゃぽん。
半透明の赤い湯に左足から滑り込む。シャンプーもトリートメントも、全身をくまなく洗い上げた絢瀬は、湯船に全身を浸からせる。温かな湯に今日の疲労が溶けていくようだ。
思わず口から声が出る。絞り出すような声は、湯船に浸かることが、どれだけ気持ちいいことなのか告げている。
「ふー……あったか……」
ほんのりオレンジ色の照明に照らされた天井を見ながら、絢瀬は長く、深い息を吐き出す。肩までしっかり浸かり、なんなら口元まで湯の中に浸かる。
吸い込まないように気をつけながら、息を吸っては吐き出す。そのたびに、温かな湯気が肺いっぱいに広がる。骨の芯まで冷えていたのではないか、と錯覚するほどに冷えていた身体は、温かな湯に溶かされていく。
帰宅早々、いつものように抱きしめてきたヴィンチェンツォが、冷たい、と叫んだのはついさっきのことだ。手入れの行き届いたヌメ革のビジネストートをひったくられ、ダウンのコートをひっぺ剥がすと彼に、お風呂行ってきてよ、と追い立てられたのだ。
温かな湯を揺らしながら、絢瀬はお湯から指を引き上げる。濡れた指先を握っては離す。ぐー、ぱー、と握って離してスムーズに指が動くようになって、相当冷たかっただろうなと思う。ダウンのコートに本革の手袋に毛糸のマフラー。防寒はしっかりしていたが、それでも身体は冷たさを纏っていたらしい。
指先まであったまり、バスタブにゆったりと体を沈めていると、磨りガラスの扉の向こうに人影が見える。ヴィンチェンツォだ。
「もうそろそろご飯できるけど、どのくらいで出る?」
「あら、もう温まったから出られるわよ」
「本当に? アヤセはお風呂短いからなあ」
「信用されていないのかしら? なら、触ってみる?」
「いいのかい?」
「いいわよ」
がらり。浴室と脱衣所につながる扉が開かれる。絢瀬がいつか贈ったエプロン姿のヴィンチェンツォは、触っていいか、と彼女に尋ねる。
どうぞ、と差し出した右手に触れた彼は、絢瀬の濡れた顔にも触れる。手は先ほどまで湯船に浸かっていたから、信用できないのだろう。
「うん、あったかい」
「でしょう?」
「じゃあ、私はご飯の準備しているからね」
「わかったわ。髪乾かしたらすぐに向かうわ」
待ってるね、と言ってヴィンチェンツォは風呂場から出ていく。磨りガラス越しに彼の姿が見えなくなったのを確認してから、絢瀬は湯船から立ち上がる。ざぱ、と音を立てて湯船から出た彼女は、磨りガラスの扉をあけて、バスタオルを取り上げる。ふかふかのタオルにお湯を吸わせて、全身から水滴を取ると、手早くオールインワンのゲルを顔に馴染ませる。
メガネをかけてから、ボディミルクのボトルを取り上げる。冬場は乾燥して粉をふいてしまうから、とボディケアは怠らない。夏場も乾いて粉をふいてしまうから、一年中ケアは怠れないのが少々ネックだ。
……閑話休題。
身体中を保湿して、髪の毛にヘアオイルをつける。風量のあるドライヤーで乾かしていると、ひょこ、とヴィンチェンツォが脱衣所に顔を覗かせる。夕飯の支度が全て終わっても来ない彼女に、痺れをきらしたのだろう。まだ五分も経っていないのだが。
晩ご飯できたよ、と声をかけたヴィンチェンツォは宇宙遊泳している猫のような顔になる。下着一枚でドライヤーを扱っている姿を見れば、まあ、一言言いたくはなる。
「せめて、保湿終わったら服着よう? 風邪引くよ?」
「暖かいからつい」
「つい、じゃないよ。もー、風邪引いてつらい思いするのはアヤセなんだよ?」
「分かってるわよ……もういくから、少し待ってて?」
ドライヤーのスイッチを切った絢瀬は、ヘアブラシでもつらかった髪を整える。寝巻きに着替えた彼女をエスコートしながら、ヴィンチェンツォは今日の晩ご飯はあったまるよ、とにこにこしている。
「あら、それは楽しみね」
「今日はこの冬一番の寒さらしいからね!」
そう言いながらリビングダイニングにつながる扉を開く。おや、と絢瀬は不審に思った。なぜなら、ダイニングテーブルの上にはなにも置かれていなかったからだ。
それを不思議に思っていると、ちょんちょん、と肩を叩かれる。叩かれた方を向くと、ヴィンチェンツォがあっち、と指差している。リビングの方だった。
指さされた方を見ると、コタツの上に土鍋が乗っている。
「あら、珍しいわね。コタツで食べるなんて、はじめてじゃない? この家に来てから」
「そうだね。テレビで見てさ、やってみたかったんだよ。日本の冬の家族団欒って、こういうのなんだろう?」
「まあ……間違ってはないわね」
もそもぞとこたつに足を入れる絢瀬。向かいに座ったヴィンチェンツォは、なんだか変な顔をしている。床に──ホットカーペットは敷いているが、直に座っての食事は違和感があるのだろう。
座布団でも買っておくべきだったかしら、と絢瀬は思いながらも、二人は食前の挨拶をする。
かぱり、と土鍋の蓋を取るヴィンチェンツォ。もわもわと白い水蒸気の向こうには、赤い湯に浸かった食材たちがあった。
「キムチ鍋かしら」
「ふふ、違うんだ。今日は赤から鍋にしたんだ。面白そうだから、買ってみたんだ」
「へえ? どんな鍋なのかしら。辛いの?」
「『辛さを極めたやみつきの旨さ』って書いてあったよ」
「ふうん? まあいいわ」
そういうと、絢瀬は豆腐と豚バラ肉をお玉によそう。つゆもセットで取り皿に分けて口をつける。色の赤さのわりに、思いの外辛くはない。どことなく甘さを感じて、マイルドな辛さは食欲が増す。
モグモグと白菜や油揚げ(ヴィンチェンツォ曰く、ネットで入れると美味しいって書いてあったらしい)に、もやしと白ネギを入れる絢瀬。取り皿に分けながら、それとなくヴィンチェンツォが食べている取り皿を見る。中には豚バラ肉(やけにたくさん入っているのは、彼がその大半を食べ尽くすつもりだったのだろう)と、申し訳程度の白ネギ。野菜が足りていない。
はあ、と呆れたため息を吐きながら、絢瀬はもやしくらい食べなさい、という。
「私、シャキシャキじゃないもやし好きじゃないんだよ」
「知ってるわよ。あなた、ラーメンにもやしが入ってると、それはもう嫌そうな顔してるもの」
「アヤセは嫌じゃないの? シャキシャキしてないもやし。もやしはシャキシャキしてないと、私食べた気がしないんだよね」
「別に好きでも嫌いでもないわね。というか、そんなにシャキシャキしてないもやしを食べたくないなら、なんで入れたのよ」
「だって、公式サイトのレシピに載ってたから……」
最初はオーソドックスなものを試さないとね。そう言いながら、やはりもやしは食べたくないらしく、ヴィンチェンツォはもやしを起用に避けていく。
仕方がないな、と思いながら、絢瀬は避けられたもやしを集めて取り皿に入れる。ありがとう、という彼に、次はもやし抜きなさい、と釘を刺す。
「これ、大根おろし入れてもおいしいかもしれないわね」
「ああ、前食べた雪鍋風にするのか……おいしそうだね。今度はそれ、試してみようか」
「そうね。その前に締めにしましょう。わたし、ラーメンがいい」
「え、私うどんがいい」
ヴィンチェンツォと絢瀬は互いの顔を見る。鍋の締めはうどんかラーメンか。あまり食にこだわりのない絢瀬が、これが食べたい、と言えば進んでそれを叶えてくれるのがヴィンチェンツォだ。しかし、今日はうどんがいいらしい。
うーん、と悩む彼に、別にラーメンじゃなくてもいいけど、と提案を引っ込めようとした時、そうだ、とヴィンチェンツォは手を叩く。
「両方入れたらいいじゃないか」
「え、そんなに入れたら、食べきれないわよ、わたし」
「アヤセが食べきれなくても、私が食べるから大丈夫さ」
ふんふんふーん、と鼻歌を歌いながら、ヴィンチェンツォはこたつから出ていく。ぽりぽりと浅漬けのきゅうりを食べながら、絢瀬はまだ入るのか、と呆れていた。
ついでに梅干しが食べたい、と冷蔵庫を漁っている彼に頼むと、彼は手をあげて応じてくれた。