それは、ある年の、冬の終わり、春にはいったばかりの、まだ年度が替わる前の頃の話だった。
ヴィンチェンツォが日本の企業に転職して一年、まだ絢瀬が大学生で、今の企業から内定をもらった頃。入社の日取りや、入社までに自身のスキルを磨いていたある日のことだ。
根を詰めすぎるのは毒だよ、とヴィンチェンツォに諭され、絢瀬はその日一日を休養日としていた。
その頃は三人掛けのソファーを置くような、広々とした部屋は買ってもいなければ借りてもいなくて、フローリングに毛足の長いラグを敷いていた。
ラグに寝転がりながら、絢瀬は隣で座椅子にちょこんと座って、ラップトップパソコンのキーボードを叩いているヴィンチェンツォの腕を触っていた。今日は土曜日だから、特に仕事の予定ではないようだが、急ぎのメールだけ返信する、と言った彼はかれこれ一時間ほどラップトップパソコンの画面を見ている。
普段は鬱陶しいほど構い倒しにくるヴィンチェンツォが構ってこないのは、それはそれで気になるほどには彼に構われ慣れてしまった。絢瀬はラグに寝転がり、彼の筋肉に覆われた太ももに頭を乗せて、丸太のように太い腕を触っていた。
鮮やかな赤い薔薇が二輪、緑と青の羽の小鳥が二羽腕を飛んでいる。光輪のような線に、白いリボンに文字が彫られた意匠は、一年前に再開した時は少し驚いたが、今ではもう見慣れてしまった。今は服で見えないが、左の肩までしっかり彫られているそれを絢瀬は気に入っていた。上腕の二本の黒いダガー、肩口にあるモノトーンのトライバル柄と瞳が組み合わさったデザインは普段見せないものだからこそ、より気に入っていた。
自分は入れる予定がないからこそ、絢瀬は前腕の鮮やかなカラータトゥーについて気になっていた。
「そういえば、タトゥーって色褪せたりしないの?」
「うん? ああ、多少は色褪せたりするさ。これも、入れた時より少し薄くなってるよ」
「へえ。そうなの。ずっと鮮やかだから、不思議だったのよ」
「まあ、多少の色褪せは肌に馴染んできた証拠みたいなものだしね。ああ、淡い色は色が褪せやすいって聞いたな」
「そうなの。まあ、あなたのははっきりした色だから、褪せるのを見ていくのも楽しそうね」
「……それは、これの色が褪せるまで、一緒にいてくれるってことかな?」
セルフレームのパソコン用のブルーライトカットメガネをかけたヴィンチェンツォが、太ももに頭を乗せている絢瀬を見る。
目と目が合う。鮮やかな青緑色の目と翡翠の目がかみ合って、絢瀬の翡翠の瞳がすう、と細くなる。
「どうかしら。いてほしい?」
「いてくれないのかい?」
「どうしようかしら」
「困ったなあ。いてくれないと、とても寂しくて、死んでしまうかも」
「仕方ないわね。それじゃあ、早くメール終わらせてくれる?」
あなたが構ってくれないと、違和感がひどいのよ。
ころん、と太ももの上で頭を動かす。ヴィンチェンツォの腹の方に向けられたせいで、絢瀬の顔は見えない。
アヤセ、顔を見せて。そう呼びかけてみても、絢瀬はうんともすんとも言わない。
これは参ったな、とヴィンチェンツォは、ブラウザーで立ち上げていたチャット欄に別れの言葉を入れてログアウトする。イタリアに住む友人達から送られてきたメールは、久しく会えていないからチャットできないかという内容だった。一も二もなく了承した彼は、久しぶりの母国の友人らとのやりとりに盛り上がっていたのだ。
とはいえ、かわいい恋人がへそを曲げてしまうのであれば、それも中断する必要があった。事情を伝えれば、友人達は笑って許してくれた。それどころか、チャットの暇があるならなんで構ってやらないのかと呆れられた程だ。
ラップトップパソコンをシャットダウンして、ヴィンチェンツォはローテーブルの上に畳む。未だ腹の方に顔を向けて、目を閉じている年下の恋人の頬をつつく。
「おーい、終わったよ」
「わたし、寝てるの。誰かさんが構ってくれないから」
「おや、それじゃあ起こすのは忍びないな。私も寝るとするか」
誰かさんが構って欲しくないみたいだしね。
そう言って、ヴィンチェンツォは座椅子を退かすと、ごろんと横になる。つけた筋肉で勝手に後ろに転がったようなところは、多分にあったが。
座椅子に頭を乗せて目をつむると、もそもそと腹の上にあった頭が離れていく。おや、と思って、片目をあけて腹の方を見る。
絢瀬が立ち上がってどこかへ行こうとしていた。慌てて起き上がって、どこにいくんだい、とヴィンチェンツォは尋ねる。
「どこって、毛布取りに行くだけよ。寝るならいるでしょ」
「あ、ああ……うん。そうだね」
「何考えたのかしら、へんなの」
くすくす笑いながら、絢瀬は寝室にしている和室に向かう。ヴィンチェンツォは枕も持ってきてよ、と彼女の背中に投げかけた。