「あっ」
ぼう、としていたがゆえに、ヴィンチェンツォは鍋の中のお湯がごぼごぼとなるまで放っておいてしまった。といっても、まだ具材は何も入っていなかったのがせめてもの救いか。
サラダを盛り付けながら、危ない危ない、と彼はコンロの火を弱める。ぐらぐらと揺れていたお湯が少しおとなしくなる。鍋の中で暴れていた出汁パックの三角の袋も、ふよふよと揺れるにとどまる。
味噌汁は出汁を入れるとうまい。出汁入り味噌なんかよか、よっぽどうまい。
そう絢瀬の母が言っていたから、ヴィンチェンツォもまた、少しの手間にしかならないので、出汁パックを入れるようにしていた。とはいえ、沸騰したので、もう出汁パックの仕事は終わったのだが。
盛り付けたサラダをカウンターに並べて、菜箸で丁寧にヴィンチェンツォは出汁パックを取り出す。つい貧乏性が出るのか、箸できゅっ、と絞ってしまう。
「サラダ、運んでもいいかしら」
「ああ、頼むよ」
絢瀬がサラダをダイニングテーブルに運ぶ間、ヴィンチェンツォはゴミ箱に袋を捨てて、味噌汁の具材を入れる。湯引きした油揚げと豆腐だけのシンプルなそれは、ヴィンチェンツォが好きなものだ。
じゃがいもやキャベツ、たまねぎを入れてもおいしいのは知っているのだが、どうにもあれらの食感と味噌汁が合わないように彼は感じてしまうのだ。出されたならば食べるが、作らなくていいのなら作らない。その程度の好みの差であるが。
豆腐と油揚げをいれて一煮立ちさせると、そのまま味噌を溶かす。ふわり、味噌の香りが鍋からたちのぼる。
「味噌汁の香りっていいよね、おなかがすいてくるよ。ところで、この香りってどうやって出来ているんだろう。素材の大豆からはしないよね?」
「たしか……発酵や熟成されるときにでるアルコール由来のものだから、沸騰させると香りが飛ぶって聞いたことあるわ」
「へえ。そういう過程で出る香りなんだ」
発酵食材って面白いねえ。
ヴィンチェンツォは心底面白そうに味噌を溶かしきると、汁椀に味噌汁を注ぎ入れる。熱いよ、と言って絢瀬に汁椀を二つ手渡す。汁椀をテーブルに並べて、今日の夕食の完成だ。
できたての味噌汁と鮭ときのこのとろろ蒸し。そしてレタスとプチトマト、キュウリのサラダ。あっさりとしているが、昨晩の夕食が、ちょっと奮発してステーキだったためだろう。そして、先週挑戦したときに、火加減が強すぎたために鮭がぱさついてしまったことに対するリベンジマッチも兼ねてのメニューだろう。
「今日のとろろ蒸しはどうかしらね」
「ふふふ、自信はあるよ! おいしいってね!」
「前のもまずくはなかったわよ。ただ、ちょっとだけぱさついていたなってだけで」
「どうせ食べるなら、一番おいしいものを食べたいし、食べさせたいじゃないか」
「でも、あれ、初めてのメニューだったんでしょう? それなら、上出来の部類なんじゃない?」
「あれで及第点をもらってたら、ダメだと思うんだよ……」
ヴィンチェンツォのこだわりを理解できない絢瀬は、胃の中に入れば同じだと思うのだけれど、という言葉をきのこと一緒に飲み込む。実際、自信満々のヴィンチェンツォの言葉通り、鮭はふっくらと柔らかく、堅くない。香りも良くて、先週のものよりもずっとおいしい。
おかずに手をつけご飯に手をつける絢瀬。白米を嚥下すると、そのままする、と手は汁椀に向かう。豆腐を箸でつかみあげて口に入れる。豆腐が少し熱くて、おや、と思いつつも彼女は汁椀に口をつける。
「あつっ」
「あ、やっぱりちょっと熱かったかぁ。大丈夫? やけどはしてないかい?」
「びっくりしちゃったけど、やけどはしてないわ。大丈夫よ」
「それならよかった。やっぱり、温度は気をつけないといけないね」
料理の基本なんだけどさ。
そう言いながら、ヴィンチェンツォはふー、ふー、と息を吹きかける。すん、と鼻腔をくすぐる味噌と出汁の香りは大変胃をくすぐるのだけれども、自分でも熱いだろうなあと思っているものを口にするのは、いささか勇気が要ることだ。何度か息を吹きかけて、意を決したようにヴィンチェンツォは味噌汁に口をつける。
「あっつ!」
「ふふ、だから言ったのに」
「びっくりした。沸騰して火を消したのに」
「ほら、あなたもわたしも猫舌じゃない。だからかもしれないわね?」
「そうかもしれないなあ……」
しばらく飲めないね。
しょんぼりしたようにヴィンチェンツォはテーブルに汁椀を戻して、サラダを取り分ける。大皿にどん、と盛ったサラダをよそいながら、彼は今日のご飯はプラスとマイナスでとんとんだなあ、と反省を口にする。絢瀬もそれに同意する。
鮭はおいしいわよ、と褒めてやるが、味噌汁だけ熱すぎたのがマイナスだと同じ口で評価する。
「たまにはしょうがないわよ」
「そうだね。次からは気をつけるよ」
「そうね。あんまり熱いと、ちっとも飲めないもの」
くすくす、と笑いながら、絢瀬は鮭を口に入れる。最後の一切れは、ほろりと口の中で砕けるように柔らかだった。