調月奈々美(つかつき・ななみ)は手に下げたライトグリーンのエコバッグにいっぱい――そりゃあもう細い彼女の腕には限界いっぱいなまでに食材を詰め込んでアパートを訪れた。
駅から徒歩十五分、バストイレ別の一DK。社会人の一人暮らしとしては悪くはない物件だ。奈々美の彼氏はこの築二十年のアパートに住んでいる。
誰がどう見ても、よほど審美眼が捻くれていない限り美少女だと言わせられるだろう彼女は、重たい荷物と大きな胸を物理的に揺らしてアパートの外階段を登る。
豊かで太ももまである黒髪を綺麗に手入れをして、黒い大きな目を縁取るまつ毛は、ばっさばさにマスカラで増量させている。アイラインだってばっちりキメて、アイシャドウは大学のメイクアップ研修で教わった、パーソナルカラー的にもぴったりのものを選んだ。
スマートフォンの真っ暗な画面を鏡代わりにした奈々美は、アタシは今日も可愛い、と自画自賛する。一番上の姉のように男勝りな格好が似合うわけでもなく、かといって下の姉のように清楚な格好が似合うわけでもない。バッチバチにキメた大振りな柄のワンピースという、少し派手目の格好をした奈々美は、スマートフォンを小さな肩掛けバックにしまってからインターホンを鳴らす。
少しして扉が開く。奈々美は以前はインターホンを押せば機械越しに確認されていたんだけどなー、と思い出す。わざわざ確認の声をかけるほどの距離ではなくなったことを嬉しく思いながら、奈々美は口角をにっ、とあげる。
玄関ドアを開けて出てきたのは、青みがかった黒い髪色の、重ための前髪に襟足の伸びた後ろ髪の大柄な男だった。隆々とした筋骨逞しさよりは、程よく鍛えられた男は、見下ろした奈々美の頭を一つ撫でてから部屋に招き入れる。
「……暑いだろ。上がれ」
「おっじゃましまーす! もう暑くて死ぬ! って感じ。アタシ溶けちゃうんじゃないかって思った!」
「化粧が、か?」
「化粧よりも奈々美かな!」
鷹山(ようざん)くん、パンケーキ作ってくれるんでしょ。そういうと、奈々美は手にしていた材料を男に押し付ける。ぱんぱんのエコバッグを受け取った鷹山と呼ばれた男・陸上(くがうえ)鷹山は、軽々とバッグを受け取りダイニングに運び入れる。
玄関の鍵を施錠して、靴を脱いだ奈々美は陸上の背中をぱたぱたと追いかける。用意されたわけではないが、初めてのおうちデートの時に持ち込んだスリッパ(ウサギ柄)が捨てられていないことに嬉しさを覚える。
対面式になるように置かれたカウンターに、エコバッグの中身を出している陸上は、パンケーキの材料以上に多いトッピング用だろう材料を見てから、ダイニングに訪れた奈々美を見る。
「……奈々美」
「暑くてさ! ほら、パンケーキにバニラアイスって完璧だと思うんだよね!」
「冷凍のベリーまではいらないんじゃないか?」
「それは、ほら! インスタ映えってやつ! ほら、鷹山くんの写真とか動画に合うかなって!」
「そこまで考えてくれたのか」
「あとね、チョコソースはあったほうがいいかなって思ったけど、前に鷹山くんが動画に出してたから、まだソースはありそうだと思って買うのやめた!」
「利口だな。まだあるぞ」
「だよねー!」
趣味の料理が高じて、月に一度ほど料理動画を動画投稿サイトに上げている陸上は、インスタに載せるか、と冷凍庫に入れたほうがいいものを冷凍庫に放り込む。二人暮らしほどの容量のある冷蔵庫に放り込まれたそれを見ながら、奈々美はアタシもやりたい、と手を挙げる。
頭ひとつほど下にある奈々美を見下ろしてから、陸上はネイルは、と尋ねる。前回綺麗なジェルネイルをしていたことを思い出してのことだろう。衛生面でも気になるのもあり、陸上が言葉少なに尋ねると、ふふーん、と言いながら奈々美は手の甲を見せる。そこにはネイルのない、素の爪があった。
「落としてきた!」
「気合の入ったネイルだったろうに」
「ネイルはいつでもできるし! 鷹山くんと料理は時間が合わないとできないじゃん?」
「……そうか」
「お? 照れてる? 照れてる?」
「うるさいぞ。ほら、手を洗え」
「はーい!」
石けんで指の股まで綺麗に洗った奈々美は、ハンドタオルで手を拭く。陸上が奈々美用のエプロンを渡せば、意気揚々とエプロンを身につける。白地にアヒルのワンポイントが入ったそれは、買い物デート二回目の時にしれっと陸上がカゴに入れたものだ。
自分用の無地の紺色のエプロンをした陸上は、天井から下がっている収納からボウルをひとつ取り出す。その間に奈々美は髪を纏めながら、パンケーキことホットケーキミックスの裏面を見ている。存外彼女は取扱説明書を読むタイプである。
牛乳を用意し、ホットプレートをコンセントに刺して温度調整していた陸上は、そのまま奈々美の手からホットケーキミックスを取り上げる。
「卵と牛乳を混ぜるぞ」
「おりょ。ホットケーキミックスは?」
「一度に混ぜると混ぜすぎになる。後だ」
「はーい。卵は一個?」
「三枚なら一つだな」
「はーい」
卵をこんこん、とシンクにぶつけてヒビを入れる奈々美。慎重に両手でヒビを軽く抑え、ぱきゃりと全卵をボウルに落とす。計量カップで測った牛乳をボウルに注いだ陸上は、そのままがしゃがしゃと卵と牛乳を混ぜ合わせる。
卵と牛乳がよく混ざったのを確認した彼は、そのまま一袋分ホットケーキミックスを注ぎ入れる。ざくざくとさっくりかき混ぜた彼に、だまできてる、と奈々美は指摘する。
「このくらいでいい。混ぜすぎると膨らまないからな」
「へえー。なんでだろ」
「グルテンの働きだな」
「グルテンフリーのグルテン?」
「ああ」
「ふーん。そうなんだ」
ホットプレートの温度を確認している陸上に、ひっくり返したい、と奈々美は再び手を挙げる。わかった、と陸上は一つ頷く。
十分に温まったホットプレートを確認して、弱火に直す。そのまま高い位置から生地を流し込むと、綺麗な円形を描いて生地が広がる。
しばらくもしないうちに、ふつふつと生地から小さな泡が出てくると、陸上は奈々美にフライ返しを渡す。
「今がいいぞ」
「お、おっけー! ……えいっ!」
「……まあ及第点か。初めてにしては」
「ま、まーね! アタシにかかればこのくらい? ヨユーでしょ!」
奈々美がべちゃりと落としたホットケーキは少し歪な円形になったが、まあ食べる分には問題ないだろう。陸上はそう思い、他の二枚を自分でひっくり返す。
綺麗な円形を保ったままひっくり返ったそれに、奈々美は熟練の技、と呟く。そんな大層なものじゃないぞ、と返事をしながら、陸上は竹串で中まで火が通ったかを確認する。
きちんと火が通ったのを確認して、ホットプレートの電源を落とす。皿、と陸上がつぶやくと、インスタ映えなら白い皿だよね、と食器棚から奈々美が二枚の白い皿を取り出す。
アイスを綺麗に掬えるアイスクリームディッシャーなんて小洒落たものなど、月に一度料理動画を投稿する程度の男の家にはない。カレースプーンで掬ったアイスを乗せる。
二掬いしたアイスを三枚それぞれのホットケーキに乗せると、一枚にはチョコレートソースをかける。なみなみになるようにかけたそれに、冷凍のミックスベリーを乗せる。もう一枚にはアイスクリームの隣に、奈々美が買ってきた絞るだけのホイップクリームを乗せる。さらにミックスベリーを飾りつけてやる。
バニラアイスにホイップクリームなど、甘すぎて陸上には食べられたものではないが、このくらい甘いものが好きな奈々美にはちょうどいいだろう。ホイップクリームにもかかるようにチョコレートソースをかけてやる。
最後の――奈々美がひっくり返した一枚には、ホイップクリームを少しだけ乗せて、先日陸上が買ってきたイチゴを乗せる。チョコレートソースをかけるか少し悩んで、あったほうが統一感が出るな、と少しだけかける。円を描くようにかけたそれを合わせて三枚のホットケーキを、テレビ前のローテーブルに置く。
インスタ映えじゃん、と笑ってる奈々美はスマートフォンを取り出すと一枚何枚か撮影する。ちょっと加工して、という彼女の隣で、陸上も同じように撮影する。こちらは一枚だけ撮って、そのままいつものタグをつけてインスタグラムに投稿する。少しすればいいねがついてくる。連鎖的に反応が増えていくそれに反応して、コメントがやってくる。デザートだから彼女さん来たんだ、彼女さん羨ましい、と言ったいつものコメントを放置してアプリを終了させる。
ちら、と奈々美を見れば、彼女は家族とのグループチャットに画像を貼ったらしい。存外、ネットの使い方を知っている彼女は、撮影した写真はすぐにインスタグラムに上げないのだ。
「げ、葉月ねーちゃんまた言ってる」
「何がだ」
「えー? 酒のつまみになりそうなもの教えてもらえ、って言ってんの。ほんと、お酒大好きなんだからさあ。ちょっとは控えなって思うよ。これはマジ」
「健康診断に引っ掛からなければ、まあ、放っておいてもいいだろう。酒のつまみになりそうなものか……」
「あ! マジになって考えなくてもいいかんね! 別に葉月ねーちゃんはいつものことだし! あ、ヴィンスくんからコメント来てんじゃん。おいしそうだって!」
「そうか」
「てか、アイス溶けちゃうし! 食べよ食べよ!」
フォークとナイフとスプーンいるかなあ!
バタバタとカトラリーを探し始める奈々美に、ずいぶん彼女が部屋にいることに馴染んだものだ、と陸上は感慨深くなる。付き合い始めて、まだ半年も経っていないが。
二人分のフォークとナイフ、小さめのデザートスプーンを持ってきた奈々美は、ローテーブル前に座るといただきまーす、と手を合わせる。陸上も釣られるように食前の挨拶をする。
「おいしー! ふわっふわ!」
「まあ、ふわふわになるように作ったからな」
「ほら! ベリーもあったほうが映えるっしょ?」
「……そうだな」
「んふー、バニラアイスにホイップクリームいいよねえ」
「……よく胃もたれしないな」
「奈々美まだまだ若いからね!」
お酒飲めるようになった年だよ。そう元気よく答える彼女に、そうだったな、と頭を撫でてやる。綺麗に手入れされた黒髪を、そっと。撫でられるのが嫌いじゃないらしく、されるがままにされながら、奈々美はぱくぱくとホットケーキを食べていく。バニラアイスがところどころ染みて、より甘いそれは見ているだけでも十分すぎるほどだ。
甘いものが得意ではない陸上には、ホイップクリームなどいちごの酸味で緩和させないと、とてもじゃないが食べられない。
一枚なるべく甘さを抑えたホイップクリームとイチゴのパンケーキを食べきった陸上は、二枚目の甘ったるいホットケーキに挑んでいる奈々美に、コーヒーと麦茶、と尋ねる。
カルピス買ってきた、と第三の選択肢を上げた彼女に、だろうな、とエコバッグから冷蔵庫に移しておいた飲み物のことを思い出す陸上だった。